ユーモレスク 11
tatikawa kitou
3章 アルツの基地
「ジュッシャ、ジュッシャ、ゴー、ゴー」
「ジュッシャ、ジュッシャ、ゴー、ゴー」
水田は巨大な水鏡の効果をもたらした。デゴイチとジャンボが水田のキャンバスの上で急接近した。
「シュッ、ゴー」
「シュッ、ゴー」
二人の視線の頂点がキャンバスのちょうど真ん中に立った。
「プオーツ! ブォーツ!」
「衝突じゃー」
オグリが叫んだ。両者がぶつかる。違った。重なった。ただし、すり抜けた。互いの目的の場所へ向かって行っただけなのだ。一瞬の出来事であった。
「なかなかすごかったじゃろ?」
やがて。水田の上に快晴とモクモクと湧き立つ入道雲と、ギラギラに照りつける太陽の三つが残った。オグリはそれをしばらく見つめ、またそれが薬効のようにオグリの心臓をしだいに落ち着かせていった。
「迫力じゃった……」
余韻に浸るオグリを横目に見ていた。そして、
「なぁ。オグリ。…テストで0点取ったことあるか?」
うつろな声で話題を変えた。
「0点はない。5点はある。アルツは0点取ったことあるんか?」
「ある」
「うそじゃろ? 満点だらけのおまえがか?」
「うん」
「いつじゃ?」
「去年じゃ」
「なしてじゃ? 分からんかったんか?」
「名前を書かんかった。書き忘れた」
「名前書かんかったら0点なんか?」
「0点じゃ。答えには全部〇が付いて、それで0点じゃ。おれ悔しゅうて殺した」
「殺した?」
目の前の地面をアルツは指さした。平べったい円盤状の石が一個あった。
「この杉の木が目印なんじゃ。それとこの鏡餅みたいな石がの」
「この下に埋めたんか?」
「ああ。じゃがバレていっぺん掘り起こされた」
「誰に?」
「今から会いに行く人にじゃ。なしてバレたんかは分からんけど、名前を書く所におれの名前とその人の名前を書いて、そして0の前に10って書いて合わせて100点にしてくれた。それでもういっぺん一緒に埋めた。『0点のお墓』じゃ言うて弔った。手ェ合わせて、ついでにお経の代わり歌を歌うた。このおれが二度と名前を書き忘れんようにって笑うて頭をなでてくれた」
「奇妙な話じゃのぅ。なんで歌なんじゃ? なんの歌を歌うたんじゃ?」
「菜の花畑の歌じゃ。題は知らん。ふつうの歌じゃ。まあええ。行くっちゃ」
なにもなかったようにアルツが立ち上がった。
「どこへ行くんじゃ?」
オグリも立った。
「アホか。初めから言うちょるじゃ。基地じゃあや。おれの」
「どこにある」
「この田んぼの向こうじゃ。そこにスクラップ工場がある。おれの基地はそこじゃ」
「田んぼをグルッと周って行くんか?」
「いんや。畦道を真っ直ぐ行く」
人一人が通れる幅の一本の小道が見開きの本のようにこの水田の中央を縦断していた。一列に片脚でケンケンしたり、プロ野球の投手のフォームを真似て進んだ。
野間スクラップ工場
赤錆に染められ掲げられたブリキの横文字看板の前に立った。
「のまジィ。おるかァ?」
返事がない。
工場と言っても、はた目スクラップをかき集めたにしか見えないオンボロ倉庫からは、古雑誌や古新聞が敷地にはみ出し放置されている。きちんと紐に縛られ束になっているものからも、散乱してはみ出し放置されているものからも古い印刷物のインクの匂いを吐き出され、辺りの空気を変色させている。
アルツがオグリを置き去りに建物を一周し回って戻って来た。
「『そのバァ』。おらんのか?」
建物の中に入り、二、三歩進んで呼んでみたが反応もない。倉庫の奥は暗く土蔵のように冷く湿っていた。外の日差しの中へ戻り、のまジィのオート三輪を見つけた。
「おらんっちゃ。たぶん廃品回収に行っちょる。でも。なしてオート三輪があるんじゃ?」
アルツが自問自答するのをよそに、
「ここがアルツの基地か?」
オグリが聞いた。
「そうじゃ。オグリ。ここがおれの基地っちゃ」
アルツは胸を張って答えた。
「のまジィって、アルツの爺さんか?」
「違う。他人じゃ。野間っていう名前の爺さんじゃから『のまジィ』、その奥さんじゃ思うけぇ『そのバァ』じゃ。あのすっげェ広い田んぼも、のまジィと『そのバァ』が二人で作ったんじゃ。他人じゃがおれの味方じゃ」
「アルツの大人の友達かぁ。じゃがアルツはここで一体何をしよるんじゃ?」
「おれ、ほとんどここで本を読みよう」
「マンガか?」
「マンガも読みようけど、すっごい量の本じゃろ? じゃけぇ、引っくり返したらマンガも字ィだけの本も算数の問題集も図鑑もなんでもゴソゴソ出てくる。じゃからなんでも読みよう。それでぶち面白かった本は、のまジィか『そのバァ』が取っちょってくれるんじゃ」
「アルツがよう勉強が出来るのはそのためか?」
「おれ。学校の勉強好かん。部屋ん中で見張られて本を読むんは窮屈じゃ。面白ぅない。でも、ここは外じゃ。ここじゃったら空見て寝て本が読める。マンガも勉強の本も風ん中で読める。じゃけ、学校の帰りにしょっちゅうここに寄る。ランドセルを枕にして空向いて本を読むんじゃ。オグリも時々ここでおれといっしょに好きな本読んだらええ」
「おれ。本読むの好きじゃないけぇのぉ。遊ぶのが好きじゃけぇ」
「おれだってそうじゃ。じゃが。そりゃあ部屋ん中で読むからっちゃ。外で遊ぶから面白いんじゃろ? じゃったら外で本を読んでも面白いっちゃ。勉強も遊びっちゃ。体動かしたら楽しいじゃろ。知らんことを知るのも同じぐらい楽しいっちゃ。遊びも勉強も楽しかったら一緒っちゃ。遊びも勉強も一緒っちゃ」
アルツの力説中、オグリはアルツの背後に立つ人物に気付いてハッ! とした。人物は洗いざらしの白い繋ぎを着ていた。
「オグリ? どうしたん?」
アルツの後ろの人物が口元に指を一本立て、(シーッ)としている。オグリはトンボみたいに呆然と目を丸くしている。
「ワッ!」
アルツめがけて人物がその腰を押した。アルツは動じなかった。振り返った。
「これこれ。蜂(はっ)ちゃん。強要しちゃあいけん」
胡麻塩頭にげじげじ眉の老人が腰を曲げ、両手を後ろ手に立っていた。
「のまジィ!」
アルツの声が大きく跳ねた。のまジィが居てくれたことが嬉しかった。
「つまらんのぅ。やっぱり蜂ちゃんはワッ、とやってもビックリしてくれんのぅ」
アルツは、のまジィの後に恥ずかしそうに隠れるみたいに居る『そのバァ』も見つけた。アルツが、
「どこに行っちょったん?」
と聞くと、
「回覧板を回しに行っとったんじゃ」
と、のまジィが答えた。
「じゃけぇか。オート三輪があるけぇ、変じゃとは思うた」
オグリは不思議そうな顔をしたが、遠慮して何も言わなかった。
『そのバァ』はおずおず立ち止まっていた。モンペを履いていた。
「『そのバァ』と一緒にか?」
「そうじゃ」
「いつも仲がエエっちゃ」
確かに昭和の田舎の爺さん婆さんには腰が極度に湾曲し、顔は地面を向いて歩く者も多かった。
「蜂ちゃんの友達かの。すまんのぅ。腰がひん曲がっちょってかっこ悪いじゃろ? まあ、田んぼが仕事じゃけぇの。ホホホ」
聞かれもしないうちに、のまジィがオグリへ説明した。
「オグリ。のまジィと『そのバァ』は田んぼを作りながらスクラップ工場もやっとるんじゃ。のまジィ。オグリはおれの友達じゃ」
オグリが広大なあの田んぼを指さした。
「おじいさんがあの田んぼを作っちゃったんですか?」
と聞いた。
のまジィと『そのバァ』は二人とも皺くちゃな笑みで頷いた。