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空白の休学時間:何者かにはなれなかったけど、自分が何者かのヒントは得られた、と思う。


休学中、動画サイトの「お勧めの動画」に、"THE FIRST TAKE"が現れた。
普段ほとんど音楽を聴かない自分だけれど、コンセプトとか、まあいろんなものがとても好きで、パラパラと、そこでの音楽を聴き/観はじめた。

その一つに、DJとラッパーの二人組の回があった。

POPですらほとんど聴かないのに、DJとラッパー。
ほぼ聞いたことは皆無なジャンル。
でも聞いてみたら、不思議と引きつけられて
(歌詞とか覚えられない自分は)歌詞をまじまじと読んで、
あーいい歌詞だなとおもった。

コロナの状況もあってか、コメント欄でもいろいろなドラマが垣間見れて、
「何にでもなれる状態」を「天才」と喩えているのがこの歌い手っぽいと書いている一文を見つけて、

「その感覚、いいな。」とおもった。

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2019年12月。
3と3分の2年生(大学生活残り4ヶ月)の状態で休学をして、留学をする予定だった、、、が、未曾有の大流行でキャンセル。

もう、世界中の人と同じように、
世界中でいきている人類の一人として、
わたしは「今後どうなるか全く分からない」1年分の空白を手に入れた。


何をしていいのかが全く分からなくて
とりあえず「なにかをしなきゃ」とおもって動き回ったけれど
やっているうちに「ただ時間を埋めたいから忙しくしているだけなのかもしれない」と(休学前にも気付いていた自分の癖?にドツボにはまっていると)気づき、一旦立ち止まることにした。

立ち止まって、「何もしない」というのも、
相当怖くて、それを究められたか?と言われると、そうでもないけれど、
そこから得られる気づきもたくさんあった。


何もしなかったことが、怖かった理由。

それは多分、私が「何者かにならないといけない」という
よく分からないプレッシャーを自分に押し付けていたからだと思う。
(社会からのプレッシャーも、まあそれなりに、とてもある気もする。)
多分、休学をしているという、人生稀に見る何をしてもいい時間があるから、何かしないともったいない、という気持ちもそれを助長していた。


自分の居場所を探すためにある程度いろいろなところに首を突っ込んできたためか、結構いろいろなことを積極的にしている人たちとの緩やかな繋がりが多かった。

世界中飛び回っている人、
イベントとかめっちゃたくさんやっている人、
長期インターンでなんか凄そうなことをやっている人、
起業とかしている人、
もろもろ。

SNSのフィード上では、SNSを積極的にやっている人たちの投稿と、
「同期に差をつけるための〇〇」的なイベントがたくさんシェア(広告とかも含めて)されていた。

何者かにならないといけない、と焦っていた自分には、
SNSの「近況報告」は、「成果発表」みたいに見えてしまったし、
イベントは、「これをやっておかないとお前の価値がなくなるよ」というプレッシャーをかけてきている/社会の「こうあった方がいい」的な価値観を押し付けられているように感じてしまっていた。

と、
いう自分を自覚した時に、
「自分と他人比較する→自分のできないところが丸わかり→ガーン→自分まだまだだわ→なんかやらなきゃ、 という今までと全く同じループしか行かないわ」と感じた自分は、
SNSをゆるりと断つことにした。

世界はオンラインが主流になっていたし、
移動すること・外に出ることに対して要・急なものがあるわけでもなかったので、デバイスをゆるっと断つだけで人と関わる機会が激減したし
実質的な半径2kmの引きこもりみたいな状態にはなったけれど、

その間、とてもいろんなことがあって
とてもいろんなことを学ぶことができた、と今は感じる。
(書くと長くなりすぎるので省略)
(それができる環境にいたということにも、感謝。)


とりあえず、私にその方法は合っていると感じたし、
予定が白紙になって、何にもしなくてもいい時間でも合った休学時間を持っていた自分にとっては、まさに「休学中にしかできないこと」ができたのではないかと思う。

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小さかったころ「何にでもなれるね。可能性がいっぱいあるね」と言われていた。「若いって、いいわ〜」と。

多くの人が、そう言われていたのではないかと思う。

そして、私も、自分より若い子たちと関わる時に、そう感じていることが多かった。

年が上がるほど、できることは増えていくはずなのに、
それと引き換えに、「何者にでもなれる」という可能性は失われていく。
(そんな気がしてしまう。)

今まで、小学校、中学校、高校、大学、そして会社、と、
自分の所属を決める度に、ある意味自分の可能性を限定していることになっていないか、とふとおもったことが何度もあった。

でも不思議なことに、
「何者かにならなきゃいけない」という世界観にどっぷり浸って、焦って、それが本当に自分に向いているか?自分のやりたいことか?という問いに対する回答に十分に耳をかさずに動きまわっている自分は、
ある意味、自分で自分の可能性を捻り潰しているようにも、感じられた。


自分がその時「これをやりたい」とおもっていても、
実は、心の声が聞けていない状態で、
社会の価値観とか、自分が勝手に作ったルールとか
そういうものにコントロールされて
本来自分があるべき方向(運命論者的な考えをしているのでこう表現しているが)と違う方向に向かってしまうことは往々にある。

と、体感的に学んだ留学。
だからこそ「自分の人生の選択の基準」を見つけたいとおもって始めた休学。
今までやってきて、前述のドツボにはまってきた方法ー動き回って自分の時間を埋めるやり方ではなくて、
あえて意図的に空白を作って、何が起こるかを観察してみるという、自分にとっては新しい方法をメインで試してみることにした。(まっ、全然完璧ではないんですけどね!←心の声)

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1年間の休学。
時間はある程度あった。
いわゆる履歴書に書けることや、「自分の肩書」みたいに、ぱっと説明できる的な意味での「何者か」にはなれなかった/ならなかったけど、自分が何者かのヒント(自分が何者かを感覚的に実感できるためのヒント?)、は得れられたと思う。
まだ言葉になっていないけれど、確かに存在はしていて、
その感覚をもっとしっかり握りしめるために
もっと自分の心の声にアンテナを向ける練習を重ねるー
これにつきるかな、という結論(2021年春現在)が、一応出た。

「何者かにならなきゃいけない」と焦るのではなくて
自分の中に既にある「なにか」を掘り起こす作業。


人と自分は違う。(あたりまえ)
今までの人生の背景も違う(あたりまえ)
得意不得意、向いている向いていないも、違う。
人と自分が違うならば、もし、天命みたいなものがあると仮定したら、それも、当然、違うはず。
「あの人は、私のできない〇〇ができて羨ましい」と比較して、自分を貶めて、もしかしたら自分が本当に向かっていく方向ではない方向に無理やり自分を連れて行こうとして、その人のことを嫉妬心とかで見て応援できないという自分よりも、
ちゃんと自分と繋がって素直な気持ちで、誰かの「やりたい」という気持ちや挑戦を応援できる人でありたい、と思う。


「時が来たらかませ」と、締めくくる、例の歌の歌詞のように
そのくらいの長期的視野と
未来の世界のへの希望を信じられる
その状態の自分を保っていく
そんな強さを、持ちたいものです。

※歌は1:21~です。前座が長い(親近感)




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