スクールカースト論 vol.2 スクールカースト存在論からその先へ
はじめに
スクールカーストの経験はかなり多様であり、人それぞれがネットや学術論文で定式化されているスクールカーストのひな形のようなものとは異なるものを体験してきている。もしかすると同じ学校・クラスに通っていても認識が違うこともありえる。
自分たちの学校にスクールカーストが事実としてあったと言えるのか、それとも無かったと言えるのか、あったとしてそれを在学中に自覚していたかどうか、など、同窓会などで尋ねてみれば、きっと多くの証言が得られることだろうと思う。
しかし、それでは証言が食い違う中でスクールカーストが存在することをどのように証明すれば良いのだろうか。それとも、その必要は無いのだろうか。以下では、「社会現象」の定義や社会構造の存在論に必要以上に立ち入ることは無く、スクールカーストについて「ある人はあったと言い、ある人は無かったと言う」構造が何を意味し、それがそのまま権力論的問題に接続することを論じる。
1. スクールカーストの言説的効果
スクールカーストの存在/非存在を考えるにあたってのひとつの提案は、スクールカーストという言葉が、実際のところ何を言挙するために一般に用いられているのかを分析することで、カースト秩序の存在/非存在という問題に対して、スクールカーストが名指された現象として現象するときとはいかなるときであるかを示すことである。
結論を先取りするならば、スクールカーストとは、人間関係の希薄化により、学校の外にも存在しており人間の優劣を決めている価値尺度の暴力性に、児童・生徒らが直接晒されるようになり、そのことによる困難が学校に特有の設定においてあらわれているものであり、こうした一連の困難を表現するための言葉が「スクールカースト」ではないかということである。
蓋し、多かれ少なかれ人は、自分の周囲の人たちに対して、何らかの基準に照らして優劣や上下をつけて眺めてみることがあるだろう。この人はあの人より上だ/下だとか、自分より上だ/下だというように。それはカーストのようなハッキリとしたかたちをとらない、カースト以前の意識として常にあり得るものだ。運動、容姿、頭脳、腕力、コミュ力など、カーストを左右しうる価値の尺度は、カースト以前にすでに世の中に存在し、他人や自分に格付けをし、仲間や敵を区別したりする材料として膾炙している。
ひとつのありうる説明は、こうした世の中に既に存在する価値の尺度によって人を色付けして見る態度が学校のなかに侵入してくることによる一連の困難が「スクールカースト」として言挙されているのではないかということである。
人が帰属集団によって自己を確認する手段は、互いの承認やケア的なコミュニケーションではなくなり、より外部に開かれた、確実で、それゆえに多くの人がそれに連なる巨大な価値基準に則ったものに取って変えられなくてはならなくなった。人間関係を自分たちで規定し事足れりとする基盤がないため、人々は大衆のなかの1人として、孤独のうちに巨大なカースト闘争にいきなり投げ込まれるのである。
教室内の人間関係は、一定の同質性を共有する他者、叩いてよい他者、叩きたくなる他者、それゆえある意味では安全な他者、として恰好の存在を提供する。受け止められる先を失った自己定義の問いかけが、社会全体に膾炙する価値尺度の暴力に直面し、その反動は卑近な他者に向け替えられることで教室を渦巻くようになる。
2. 上からのカースト形成と下からのカースト形成
スクールカーストの存在を意識するかどうかは、スクールカーストという概念を知っているかどうか、具体的には、ネットなどを通じてカーストの雛形を知っているか、カーストを左右しうるような価値観のトレンドに慣れ親しんでいるかどうか、に多くを依っている。
筆者の経験においても、カースト秩序の形成を先導し上位に落ち着いていた者には、上の兄弟姉妹がいる者が多く、彼らは学校文化・若者文化の規範的メッセージにはやくから晒され、SNSへの参入・順応もはやかった。彼らは、カーストの上下を決定する事柄について、はやいうちからポイントを押さえて行動し、着実にカードを獲得・保持することで、愚鈍な長男長女や情報弱者たちを出し抜いていく。
これが「上」からのカースト形成である。
他方、カーストには「下」からの形成もある。
しばしばカースト上位者のなかには、計画的に上位にのし上がったのではなく、生まれながらのメリットも後押ししてか、カーストを意識せずに振る舞った結果としてカーストの上位に君臨する者もいる。それに対して、計画的にカーストを前提とした立ち回りをする者や、カーストへの劣等意識の結果としてカーストの権威に敏感になる者はいる。彼らはしばしばカースト下位者かもしくは中位者であるが、彼らのカースト意識が、実際にカーストをつくり出したり、強化したりするのである。
これらのカーストの形成経路はともに、「スクールカースト」かそれに類する仕組みを、どこかのタイミングで悟った者たちの意図的な振る舞いによっている。スクールカーストという言葉が、前述のような困難の強化に使われたということであり、同時にそうした困難を予知しえた者たちが優位者側に回るためにその知恵を用いた結果である。スクールカーストという言葉は、学校における困難を名指し、それに対処するために用いられる必要がある。ある意味では、彼らもその対処を行ったことになる。しかし、その対処の方法がスクールカーストの確立と強化であったというわけである。それ以外の方法で、全員が救われるためにはどうすればよいだろうか?
3. スクールカーストという言葉の魔力
スクールカーストという概念をある日突然に知ることになった少年は、それによって新たに自分の現在とこれからを考えるだろう。スクールカーストという言葉を注入されることによって、今まで思いもよらなかった対立構造のなかで自分が既に負けている(あるいはたまたま勝っている)と気づかされ、心を乱すことにもなるが、それは同時に今まで看過されてきた問題に疑問を投げかけられるようになることでもあるのである。不思議なもので、スクールカーストとは現実認識の色眼鏡であり、だからといってその眼鏡を通して見た現実もまた一抹の真実の姿であることに変わりはない。フェミニズムを知ってしまったことで趣味の料理を素直に楽しめなくなった女の子は、それと同時に今まで自分がジェンダーメッセージによって料理を自己のアイデンティティとして引き受けていたことに気づくが、これに似ている。
我々は、スクールカーストという言葉を知ってしまった。もう知る前には戻れない。
4. カースト的な視線を迂回させること、あるいは…
振りかえってみて思うのは、自分はカースト秩序に無自覚に中学時代を過ごせてよかった、ということだ。カーストにとらわれていたら、自己肯定感に影響しただろうし、短絡的な承認にとらわれて、長期的には自分をエンパワーメントするものに努力のリソースを回すことができなかっただろう。
社会に出たあとも、カースト的な(あるいはカースト以前的な)視線で他人や自分をジャッジし、その結果を口に出す人もいれば、そもそもカースト的な視線で人をジャッジしない人もいる。SNSでは前者が目立つこともあり、大きな舞台での競争にいきなり放り出されて目を回すことになる人も多いことだろう。
こうした情報に触れないようにするというのが、まず一応の解決策として考えられる。しかし、それは多くの場合通用しないことも明らかだ。兄弟姉妹から知恵を吹聴される子どもたちは現にいなくならないだろうし、子どもがスクールカーストという言葉に触れる機会を完全に避けるのは難しい。
ではどうするか。