京大哲学科が京大入試国語を解いてみた vol.1 2018年 大問2「影」古井由吉

はじめに

ご存じの通り、大学は入試の採点基準を公開しません。なかでも模試の結果から本試の結果を予測しずらいのが国語の(旧)現代文です。

模試の結果から計算される合格率は「とある時期に、とある問題、とある採点方式で、これくらいの点を取れた人は、本試でこれくらいの点数を取る可能性がこれくらいある」ということを表します。あくまで本番と近い受験者層を集めて形式をそろえて争った場合の受験者の位置が問題になっているだけで、問題形式と採点形式への適性は必ずしも関係がありません。

事実、「教学社の赤本」、「河合塾の黒本」、「駿台の青本」、「東進過去問データベース」、「全国大学入試問題正解」それぞれの模範解答を見比べても、解答の主旨が全く異なる場合が多々あります。なお、いくつかの大手塾会社の模範解答を比較検討し、バランスの良い解答を仕上げる方法については国語王さんという方が既にやっておられます。

以上のような事情があって、多くの受験生にとって国語は、合格者平均を目指すべき科目であり、文系受験生であっても得点源にしている人は少ないです。

しかしながら本シリーズは、そうしたコスパ重視の受験勉強とは全くかけはなれたところで国語を究めてみたいという人に向けて書かれています。いわば実際に京大に合格して、テキストを扱うことを大学で勉強してきた「中の人」として、京大入試国語のテキストはどう読めるのかを解説します。とはいっても、筆者が全く自由勝手な解釈を開陳するのではありません。読解の世界には必ず客観的な「標準」が存在し、それを踏襲することからすべてが始まるのです。本シリーズはそうした読解の「標準」が分かるように書かれています。

「どうも解答・解説が腑に落ちることが少ない」、「大手塾の模範解答では物足りない」という人は是非ご一読ください。


※今のところ抜粋等付けておりません。本文、問題はお手元でご確認の上お読みください。

本文要約

※国語王さんのまとめを参考にさせて頂いています。以下は転載です。https://note.com/pinkmoon721
主要大学二次及び一次試験の解答が精査されており、各予備校の解答が一気に確かめられます。勘所と国語王さんの思考の過程が分かるものとなっていて、おすすめです。

①段落

私の咳は風邪の咳と違って、気管まで届かない。気管に届く咳は一種独特の快感があるものだが、私の咳は通路そのものがケイレンを起こし、気管が身勝手に神経的な苛立ちをぶちまけ、われとわが身をいためつける。私はこらえるだけこらえて、それから《俺はいつかこれで死ぬぞ、これで死ぬぞ》とやくざな喉と気管をなじりながら、手放しで咳きこみはじめる。

②段落

ベランダに出ると咳が出るのは、躰が急に冷やされるせいだろうが、それよりも先に、「夜気の中に立った不節制な躰の、いわば戸惑いといったものが働いているようだ」(傍線部(1))。いくら都会とはいえ夜半をまわればいくらか清浄になる空気に触れて、タバコの煙と坐業にふやけた躰が自分の内側の腐敗の気を嗅ぎ取り、うしろめたく感じるのだ。曖昧に喉から洩れた咳が静まりかえった夜半の棟と棟の間で高く響き、人の眠りを乱してしまったような恥ずかしさが、また咳を誘い出す。ちょっと切羽つまった響きがその中に入り混じると、たちまち自己暗示にかかって、ほんとうに身も世もあらず咳きこみ出す。

③段落

ある夜、私はベランダの手すりにもたれて、誰もいない中庭の遊園地にむかって手ばなしで咳きこんでいた。ブランコや滑り台や砂場が静まりかえって、私の咳を無表情に受け止めていた。そのうちに、私が咳くたびに、向かいの棟の壁いっぱいに恫(うつ)ろな音が走るのに、私は気づきはじめた。私の声が向かいの壁にひろがって谺しているらしかった。私は急に空恐ろしくなって手を口に押し当てた。

④段落

向かいの棟の壁に大きく、頭が屋上に届きそうに映った人影を、私は一度ベランダから見たことがある。夢でも錯覚でもない。光の加減でそんなことがあるのだ。ものの二、三秒だった。建物の近くを歩いていた男の姿が、車のライトに照らされて壁に投じられたとしか考えられない。男の背後に車が迫って、その姿をライトの中心に捉えたのだろうか。あるいは、車がふいに妙なところで妙な風に向きを変えて、その近くを歩いていた「男から影をさらっていった」(傍線部(2))のだろうか。

⑤段落

とにかく壁に映った男はレインコートを無造作に着流して、実に気ままそうに歩いていた。酔っぱらって一人で夜道を帰るところだなと私は想像した。祝い酒だかヤケ酒だか知らないけれど、ここまで来れば、「酔いはもう自分一人の酔いであり」(傍線部(3))、誰に気がねをする必要もなく、酒を呑んだ理由さえもう遠くなってしまって、一歩ごとにあらためてほのぼのとまわってくる。何もかも俺の知ったことじゃない。いま家に向かっているのも、明日の勤めのためにこの躰を家に運んでおくためだ。毎日の暮らしには、いまはそれだけの義理立てをしておけば沢山だ…。

⑥段落

発散しない酔いにつつまれてベランダに立っている我身に引き比べて、私は男の今の状態をうらやましく思った。どちらへ行ったか知らないが、その後姿を見送るような気持ちで、私は影の消えた壁を眺めていた。

⑦段落

しかしあんな風に一人気ままに歩いている時でも、自分の姿がどこかに大きく映し出されて、見も知らぬ誰かに見つめられているということがあるものだ。本人は何も知らずに通り過ぎてしまう。影が一人勝手に歩き出して、どこかの誰かと交渉をもつというのはまさにこの事だ。そんな事を私は考えた。

⑧段落

というのも、ほんの一瞬ではあるが、私は壁に投じられた影を自分自身の影と思ったのだ。そして影がなげやりな足どりで壁を斜めに滑り出した時、自分が歩み去っていくような、「奇妙な解放感」(傍線部(4))さえかすかに覚えたものだった。夜道を一人気ままに歩く男の、影が本人の知らぬ間に壁に大映しになって、赤の他人の私の身を惹きつけて歩み去る。私はその影につかのま自分自身の姿を認めて、自分自身が気ままに歩み去っていくのを見送る。われわれには「影の部分の暮らし」(傍線部(オ))があるのかもしれない。あるいは、われわれの中には、影に感応する部分があるのかもしれない。

S台・K塾の解答例

問一 傍線部(1)における「戸惑い」とはどういうことか、説明せよ。(二行:一行25字程度)

<参考 S台解答例>
喫煙と座りっぱなしの仕事でだらけた躰が夜半過ぎの清浄な空気に触れ、過敏に反応して咳が出るということ。(50)

<参考 K塾解答例>
清浄な外気に触れ咳をする背後には、健康に留意しないできた後ろめたさや気恥ずかしさのようなものがあるということ。(55)

問二 「男から影をさらっていった」(傍線部(2))はどういうことか、説明せよ。(二行:一行25字程度)



<参考 S台解答例>
歩いていた男を車のライトが偶然珍しい方向から照らした結果、壁に映った影が男から遊離して見えたということ。(52)

<参考 K塾解答例>
ライトに照らされた人影が、ふとした偶然で奇怪に歪形され、当人から離れて一人歩きしているかに見えたこと。(51)

問三 「酔いはもう自分一人の酔いであり」(傍線部(3))はどういうことか、説明せよ。(四行:一行25字程度)



<参考 S台解答例>
誰とどんな理由で飲んだ酒であれ、酔っぱらって帰宅する途上にまで至れば、家人も含めて誰に気がねする必要もないので、他人を一切意識せず、歩くにつれてほのぼのとまわる酔いを、気ままに発散していられるということ。(102)

<参考 K塾解答例>
気ままに夜道を歩いて帰宅しているかに見える人影には、酒を飲んだ理由や他人との関わりといったものに気をとめることなく、心地よい酔いに自分の心身をおおらかに解放し一人それを楽しんでいるさまが感じられること。(101)

問四 「奇妙な解放感」(傍線部(4))を「私」が感じたのはなぜか、説明せよ。(四行:一行25字程度)



<参考 S台解答例>
発散しない酔いにつつまれてベランダに立っている「私」は、酔って気ままに歩み去る男の影が壁に映じるのを見て一瞬自身の影と思い、自身が日常から逃れて気ままに歩み去って行く自身を見送るような錯覚を覚えたから。(101)

<参考 K塾解答例>
当人が知らない間に影だけが一人歩きをして人目を惹くという非現実的な光景から、自己の内にも制御不能の部分があることに思い至り、自己の身体や意識に過剰に囚われて生きてきた状態から逃れ去っていく自由を感じたから。(103)

問五 「影の部分の暮らしがある」(傍線部(5))はどういうことか、説明せよ。(四行:一行25字程度)



<参考 S台解答例>
男の影が本人の知らぬ間に他人の「私」の目を惹いたことから推して、人間には、自身が送っている人生とは別に、自ら何も知らずにどこかの誰かに認識され、影響を与えるという、無意識的な生活というものがあるということ。(103)

<参考 K塾解答例>
人は通常、自分という存在を他人との関わりや自己の心身と重ね合わせ理解しているが、自分の中には自意識だけではとらえがたい部分があり、それが日常の中で他人との間に思いがけない関係を取り結ぶこともあるということ。(103)

本編 京大哲学科が京大入試国語を解いてみた「痰咳と空咳の二項対立」

まず「咳」の意義を整理しよう。それには「カタルシス」の語のニュアンスを掴めるかがポイントとなる。

痰咳

”私の咳は風邪の咳と違って、気管の奥まで届かない。気管の奥まで届いて、そこにたまっている痰をゼイゼイと震わせる咳には一種、独特の快感があるものだ。”

カタルシスとはアリストテレスの悲劇論にはじめて定式化された、ギリシャ悲劇の結末の形式のことである。悲劇的な結末が演じられるのを見て涙を流すことで、観客は安全地帯にいながら激情を疑似的に体験することができる。そうすることで観客は、現実的合理性によって整序された日常生活を生きる合間に、不合理性や感情の動揺にアクセスすることで、デトックスすることができるのである。

苦しみを抱えながら生活するなかで、生活の中に相対的な喜びを持とうと頑張るのではなく逆に、一度ふりきれてみて、大きな苦しみを体験することで、かえってすっきりするということである。

カタルシスという言葉は一説には「排泄」を語源とすると言われている。「排泄」とは、生きているうちにどうしても溜まってしまう悪いものが放出されるということである。たとえば劇を見て涙を流すという行為には、悲しみが極まった契機であるという側面(つまりは、悲しみの真っ最中である側面)と、極まった悲しみが「あふれ出す」契機(つまり、悲しみを通過してしまう、それによって悲しみは解消されるという側面)の両方がある。後者の契機ついては、涙がしばしば「心がいっぱいになってこぼれ出したもの」と理解されていることからもうかがえる。

痰咳と空咳は、どちらも「咳」であるからには苦しさを持つが、苦しさの種類が違っている。痰咳の快感とはまさに、カタルシスの快感、何らかの吐き出すべき異物が確かに認知でき、痙攣する体は、いわば敵なるものを叩く手ごたえを感じることができる。そして、それを取り除けば喉がスッキリと通る。つまり、ハッキリとした苦しさがあればその分スッキリできるのである。他方、空咳はその反対である。ハッキリとした苦しみの原因や対象が無いために、スッキリ感もない。

このように「痰咳⇔空咳」の二項対立は、「カタルシスの予感の伴う苦痛⇔そうではない苦痛」と言い換えることができる。そして「カタルシス的予感の伴う苦痛」のポイントは、

①苦痛の強度がふりきれていること
②そのことによってむしろスッキリとデトックスすることができること

であった。

空咳

さらに「カタルシス的予感を伴わない苦痛」とはどのようなものかをより詳しく記述している箇所を見てみよう。

”はじめは照れかくしの咳払い程度でも、ちょっと切羽つまった響きがその中に入り混じると、たちまち自己暗示にかかって、ほんとうに身も世もあらず咳こみ出す。”

この箇所は、「カタルシス的予感を伴わない咳」を敷衍的に説明している。ここで「自己暗示」と言われている感覚は、誰でも経験のあることである。「咳払い程度の咳」が、喉を傷めているときの、僅かな粘液でかろうじてもっていた粘膜を風にさらしてしまい、そのせいで次の瞬間から、粘膜を風にさらしたことによる違和感が解消されるまでより激しくせき込んでしまう。それは痒いところをかくと、痒みを持続させてしまい、結果、痒いのか何なのかうやむやになるまで掻いてしまうのに似ている。もしくは僅かな汚れでも、こびりつくたびにこすって取り払おうとすれば異物は取り除かれるが、その掻き撫でる手は、美しく保とうとする当の対象をも摩耗させるのにも似ている。

カタルシスにいたるほどの振りきれた苦痛ではなく、弱い苦痛をちまちまと積み重ねることは、逆説的にもカタルシス的な大きな苦痛よりもいっそう不快かもしれないのである。ある程度は「ためて出す」ということをしないとかえってしんどくなるのであり、下手に「ガス抜き」をするより、破裂するまで緊張を高めてから一気に解放するほうがスッキリするのである。主人公の男はこのような「空咳」の位相に属する苦痛に捕らわれている。

「空咳の苦痛」と男の生き方

ここまでのところで、男がとらわれている「空咳」の位相に属する苦痛がどのようなものかを説明した。ここでは、この「空咳」の構造が男の生き方全体をあらわしていることを説明する。

痰咳と空咳の二項対立を扱うことで読者は、「苦痛」に関してとある逆説的な思考を得たはずだ。それはつまり、「苦しみの対象が"ある"よりも、苦しみの対象が"ない"方が苦しい」という逆説であり、「苦痛の量を減らそうとして下手に『ガス抜き』をするより、破裂するまで緊張を高めてから一気に解放するほうが気持ちいい」という逆説であった。

傍線部1で主人公の男が抱いた「戸惑い」も、空咳の苦痛に関係している。よってもし仮に問1に誠実に解答するなら、その勘所はここになる。

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「だらけた躰⇔空気の清浄さ」の二項対立で問題となることは厳密には、空気の冷たい清浄さは、そこに一切の免疫的な防衛もとらずに身をさらせば、たちまち粘膜を乾燥させるが、清浄さを迎え入れようとしたときには免疫を弱めなくてはならず、強力な粘膜をもって食べものをどんどん取り込んでエネルギーに変える強迫性から距離を置かなくてはならないということにあるのである。

「座業にふやけた躰」からしてみれば、つまり苦痛と快楽のメリハリを失って、どちらも弱くしか感じられない者からすれば、清浄さというのは「強さ」を持っている点で不浄さと等しいのである。

主人公が世間に対して抱く「申し訳なさ」もここに由来する。相対的苦痛を抱えながら、世間への適合性の乏しさを感じながら生きるが、かといってそれを打開して活力と喜びに賭ける生き方をすることも、苦しみを徹底する度胸もないということ、つまり、「いやあ、ちょっと今日は体調を崩してまして…」と言い訳をして、またそのこと自体を恥じている訳である。

これはカタルシス的な浄化の過程が結局、爆発なのかガス抜きなのかといえば、その境界であることを言わなくては整理されないだろう。

最終的に、この抜粋は影絵芝居のカタルシスに関する、このような両義性については立ち入ることなく、ある意味ハッピーエンドを迎える。

※ちなみに傍線部2についてもし仮に誠実に解答するならだが、よくある解説で「さらっていく」のニュアンスの説明ばかり強調されるところ、それより問題は車の「偶然」の方向転換というのが何を表すのか、逆にここで「必然」とは何のことかを分かっているかどうかである。


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