身体の一部である髪を切ってデザインするということ
髪型が人に与える影響はとても大きい。
初めまして、のあとに自然と目に入る髪型。
そんなに意識しようとしなくとも、体の一部となって頭にくっついているのだから仕方のないことだ。
髪型を決める時はみんなどんな風に決めているのだろうと考える。
ファッションも見た目を支えるひとつではあるが、髪は" 自分の持って生まれたもの "というところでいったら、ごまかせない部分だと思っている。
髪結いは美容師とも呼ぶのだが、私自身美容師という言葉はなんだかあんまりしっくりこないのだ。
それは何故だか考えてみた。
きっと、美容という言葉がひっかかるのだろう。
美容師は外見をととのえ美しくする仕事ではあるので名前の通りなのだが、それだけではないからだ。
会ってすぐに体に触れる仕事はいくつあるだろう。
当たり前すぎてあまり意識しないが、触れるという行為によってその人の外側よりも実際は内側の部分とつながる感覚のほうが強い。
どうしても美容という言葉は、外側に向けて使われることが多い。しかし、美しさはmind(心)もケアしなければ本物ではないのだ。
mindは思考・感情・記憶などをつかさどるものだ。心や精神、知性、意識、思い出 ...
美容室へ行ったらついあんなことやこんなことまで話してしまった、なんてことはないだろうか。
人は触れられると心がほぐれてしまうものらしい。
髪を切っているとその人の今の状態が何かの振動になって自分の中に音となって響く。
医者ではないので診断が出来るわけではないがホリスティックにその人が見えてくるのは確かだ。
それになんとか答えたいと思いながらいつも過ごしている。
気というものはもともと" 氣 "という文字だったと、植物療法を学んでいる先生に教えてもらった。
" 氣の中にある四方八方に伸びる米という字を、〆ちゃダメよね "
あはははと笑いながら話す先生を眺めながら、ぐぅの音も出ないほど深く納得したのを思い出した。
髪結いとは調べると" 料金をとって男女の髪を結い上げる職業 "とある。
職業としては江戸から存在し、明治には女髪結いが生まれた。
大正から昭和にかけて日本髪を結う人はだんだんとなくなっていき、髪結いは美容師へと変わっていったそうだ。
世界的な歴史で見てみると5000年ほど前。
古代エジプトでの僧侶や薬学者が行なう神聖な行ないが始まりだ。理容師は外科医も兼ねていたため「理容外科医」として扱われていたのだ。
ルーツというのはいつだって面白い。
なんせそれは始まりを知ることができ、そこにシンプルな本質的な意味があると思うからだ。
そして妙に納得している私がいる。
私たちは実際には体にメスはいれないし、体の中を見ることは出来ない。しかし、イメージではどうだろうか。髪を切るというのは体の一部を切るということにもなる。髪は生きていて、何度切ってもまた生えてくる生き物だ。
イメージをもってその人の内側を流れる氣をデザインしととのえる作業をすること。そして、外見を変えること。
それは未だに外科医から発展した部分もあるのではないかと思ってならない。
現代の美容師のイメージは
お洒落、派手、最先端のようなとこだろう。
ファッショナブルでイケてる人達。
そんなイメージを持たれていることは重々承知で、否定はしない。髪型はいつだって違くてバッチリ決まってる。洋服だってなんでも着こなして、いつだってSNSの中でもお洒落アイコンな存在だ。
きっと美容師はそうであるべきなんだと思う。思ってきた。けれど私は、なんだかそれがとっても悲しくて悔しいのだ。
美容師を目指した頃から、何かおかしいと思っていた。目立つべきは自分じゃない、相手だ。自分を主張するのは、相手と繋がるなかで見えてくるモノでありたい。あまりこちらからイメージを強く与えることがどうしてもしっくりとこないのだ。
私は髪結いのもとへ、内側をととのえに行きたいと思う人が増えてもいいと思う。むしろそちらのほうがしっくりくる。
内側を診て、感じて、イメージする。それができないとしたら、どうやってその人らしさを引き出したらいいのか分からない。
先入観をもたず、自分の生きてきた見てきた価値観で対話する。だからとてもエネルギーが必要で、時には息切れ切れになってしまうこともある。けれどらそのやり方しか私には出来ない。
シャンプーしていい香りに包まれたりするのと同じくらい、触れられて会話をすることはきっと最大のセラピーなのではないか、と思う。
触れ合うことで人は温度を交換し合う。
声の振動で鼓膜から音となって脳で感じる。
私の場合はhairとmindの二つが合わさって、初めてデザインしたと言える気がするのだ。