シン・エヴァンゲリオンを観てきました感想(ネタバレ込み:Vo.3 雑記と震災と虚構と己)
こんにちは。
性懲りもなくまた書こうとしています。
今回は、他の感想とかもちょこちょこ見たあとの雑記として機能させるための記事として更新をしようかなと思っています。
なので、今後何か感じたらこの記事に追記をしていくことにします。
(あと、この記事に関しては前の2つよりもデリケートなことにも触れる可能性があるのでなんとなく敬語で書いています)
たぶん、この記事はシン・エヴァンゲリオンの感想記事と銘打っておきながら僕の個人的なことばかりを書くと思うので、そこらへんはいい感じにスルーしてもオッケーです。よろしくお願いいたします。
※3/16に追記を行いました。
■他の方の感想を読んだりしているぞ
読んでいるぞ。お前の感想もな。
今、自分のフレッシュな思いのたけを記事2本分にわたり書き連ねたので、いよいよ他の方の感想も見始めています。
これがアタシの子よ
僕個人としては非常にポジティブなというか、祝福のエネルギーを感じる作品として受け取ったのですが、最終盤を旧劇の焼き直しとして見たときにコレジャナイという感覚になった人は結構いるみたいですね。
普通にそれもアリだと思います。
結局は個々人が作品を通じて何を受け取ったかが一番大事なので。
今自分の記事を読み返すと(特にVol.2)かなり荒唐無稽なことを言ってる気がしますし。
ただでも、僕はマジで「虚構も現実も今の自分を形作ってきた道程であり、それらを双方愛することによって明日へ向かうことができる」というメッセージを受信したので、それで良いのです。
他の方の様々な感情も摂取したいので色々つまみ食いしている最中です。
ここに僕が敬愛している映画レビューYoutuber、茶一郎氏の動画をとりあえず貼っておきます。
彼は庵野監督の別の作品や、そのルーツとなった映画作品などから、どちらかというとエヴァを作家論的に読み解いています。
「風呂敷を広げ過ぎた謎の回収やキャラ萌えについてはわからない」「映画好きの見地で読み解いていく」という彼の立ち位置がとても好きです。
映画にまつわる知識が非常に多岐にわたる方ですし、語り口も大変聞きやすいのでとてもおすすめです。
最終結論的には僕の持論よりもちょっと寂しいものになっている気がしますが、どちらかというとこういう読み方をする人の方が多いような気がします。
僕がとにかくエヴァンゲリオンという虚構を幼い頃のおもちゃ箱として扱いたくないだけなのかもしれませんね。
ただ、そう思っている以上、自分が好きなコンテンツに対しては真摯に向き合いたいものです。
こちらはTwitterで親交のあるpapamfp氏の記事です。
追記にて僕の妄想散文に反応を示してくれたので、僕も反応したいと思います。それが相互のコミュニケーションだから……(だったら直接コメントしにいけよとも思いますが)。
彼は最初から立場を表明しており、テクスト論的な立ち位置から今作を解釈しています。
テクスト論!!!
記事中でテクスト論という文字列を見て嬉しくなってしまいました。
その言葉を見るのは大学の授業ぶりだぞ!!
テクスト論については彼の記事の中にもうとてもわかりやすい解説がついているので省くのですが、文章中に書いてあることを元にその作品について解釈する、ということです。
(たぶん僕がテクスト論的な見地に立って解釈をする記事を書くとしても、ソレそのものの解説はだるくてしないだろうからやっぱりpapamfp氏はえらい)
一見当たり前のことのようですが、よく国語の問題の例として「これを書いているときの作者の気持ちを述べよ」というものが(実際にはそんな問題あんまりないのですが)挙げられたり、大学の文学部のことを''作者の気持ちを考える学部''と揶揄したりしますよね。
案外ここの考えがゴッチャになっている人は多くいて、あらゆる創作物は書かれた瞬間から作者の手を離れているので、どちらかというとテクスト論で読み解くのが一般的かと思います。(ただ、作者本人の状況や当時の世界情勢などが重要なキーになっていて、そこをスッ飛ばすといくらでもアナーキーに読めてしまう作品もたくさんあるので、背景説明としての作家や社会情勢の情報は必要だったりすることも多々あります)
本来「この作者だったらこういう気持ちで書いてるだろう」とする読み方を進めるのは結構悪手なんです。
で、翻ってみて僕の文章なのですが、ほぼ作家論というか、作者の気持ちの想像で書かれています。おいおい最悪じゃねーか!!
いや、まあ、それも上記の記事に書いてあるんですが、一つは例の「庵野死ね!」のトコが原因なんですよね。
あと、「スキゾ・エヴァンゲリオン/パラノ・エヴァンゲリオン」というエヴァ読本からエヴァンゲリオンを語る際に毎回毎回引用される、「エヴァンゲリオンは他者を描く人間ドラマじゃなくて自分の人格をいくつにも分割してメインキャラにして、自分同士で話を構築している」という庵野監督のインタビュー。
後者のインタビューに関しては、まあ、普通創作者って少なからずそうじゃねえ?とも思うんですが、それを言われた上で旧劇のアレを観ちゃうと、少なくともTV版の終盤と旧劇に関してはテクスト論的に読み解くことはできないなという気持ちになります。
ここにさらに作者の気持ち想像を重ねるのはもう墓穴内をヴンダーで驀進しているようなものなのですが、個人的には庵野監督のことを「普段は自我をまあまあ制御できてるからエンターテイメント作品を作ることも出来るけど、ひとたび何かあって決壊すると暴走する現在の自我を画面にそのままお出ししちゃう作家」だと思っています。
たぶん、旧劇とQは「やっちゃった」んだと思います。
いや、だって今TV版観返してるけど普通にエンターテイメント作品として面白いもん!!
雲行きが怪しくなるのは本当に最終盤の頃で、それまではわりとテクスト論で読めるというか、普通に痛快なSF作品で、それは新劇場版の序と破もそうなんですよ。
エヴァンゲリオン新劇場版は当初リメイクというかリビルド作品群として出されるはずで、監督の当時の所信表明などを見ても日本のアニメ業界への危機感や、エンターテイメント作品を作るサービス業としての部分を強調しています。
庵野監督の2006年の所信表明
おそらく当初の予定ではTV版のエヴァンゲリオンの流れをなぞり、今度こそ作品から一歩引いた目線で最後まで進行させるはずだったのではないかなあと思います。
当初のノリを保っていたら、最後もたぶん漫画の貞本エヴァみたいな感じにいってたんじゃないかな。「エヴァのリメイク」だったらあの形にするのがベストアンサーなのだと思います。
何がインパクトとなってふたたび監督自身の自我がエヴァに搭乗することになってしまったのかは、これも想像ですが僕の記事の1つ目に書きましたのでよろしくお願いします。
シン・エヴァンゲリオンは、Qで完全にやらかして全面に自我を登場させてしまった作品世界の在りようを、元に戻す儀式の過程(を一歩引いた目線で作成している)とも取れると思います。
Qの時点ではギリギリ震災と絡めなくても進行できそうだったのを、敢えてシン冒頭で「あいさつの魔法」なども込みで意図的に踏み込んできたのは、一度自我を搭乗させてしまったシンジ君が作品世界内で立ち直る流れを描くためには、どうしても触れなければならなかった、という面もあると思います。
ミサトさんのリカバーのためのセリフパートなど、Qでやっちまったことに対する落とし前のカットが多くあるのもまた事実です。
僕はQおよびシンゴジから触れることにしたので、監督の自我っぽいものに沿った視線でシンも観ておりましたが、最終エヴァという作品自体は虚構世界に返された上で、両方とも自分の過程の中に吸収されたという結論にしたので、わりとその辺の立ち位置がゴッチャになってしまいました。反省。
そういう意味では、テクスト論でシンエヴァを読み解くというのはメチャクチャ意義のあることというか、でもある意味物凄く大変な作業というか、とにかく良いのです。良かったあの記事は。
あれを真面目にやろうとすると考察から逃げられなくなる(画面上に出てくるものとか語られるわけわからんワード、薄い聖書モチーフなども全部テクストだから)ことの方が多いだろうに、そこをバッサリ切っているのもかなり良かったです。あと普通に文章上手過ぎ。
マリに関する解釈もスッキリしていて好き。
僕自身は(特にシンにおいては)彼女の存在自体は安野モヨコさんのことを想定して描写してそうだなとは思いましたが、そりゃメタ的な話で、別に作品内であそこにいるのはマリだし、監督の隣にはまあ嫁さんがいるのかもしれんけど、俺やお前の隣にいるのは誰でもいいだろと思っています。
結婚は最高!っつてんじゃなくて、お前の近くにいてお前を引っ張ってくれたりお前が引っ張ったりする、でも全然お前の考えの範疇にいない他者……友達とか、家族とか、を大事にしなさいよっていう。
もっと一般普遍的な話だと思うし、あとマリは胸がでかいしいい女です。
何より、僕と同年代で序→破→Qをリアルタイムに体験してきた世代が、"あの"エヴァンゲリオンからポジティブな祝福を共に受けられたことを非常に嬉しく思います。
この項については、唐突ですが僕が好きな映画の予告編を貼って終わりにします。
自分にとっての宇宙人の女の子を大事にしたいものです。
■震災と己と創作物
本来これは3.11を振り返るものとして独立記事にしようと思っていた文章だったのですが、シンエヴァが僕が思っていたことをの後押しをかなりしてくれたのでここに吐き出しておきます。だいぶ1つ目の記事に書いちゃったけどね。
実際に3.11に日記として吐き出したものが下記です。
シンエヴァ感想Vol.1を書いた時点で自分が書いたこととの符号がヤバすぎて、自分で自分に対して慄いていました。
いや、冷静に考えたらこれが一般的な時間の経過というものだし、どちらかというと僕がこういう視点であるがために第3村のシーンはあの解釈になったと思うべきなのですが、それでも僕は大学生時代に受けていたある講義のことを思い出さざるを得ませんでした。
僕が大学2年生の頃です。(ちなみにエヴァQが大学1年の頃でした)
年度初め、どの講義を取ったものか悩んでいた僕は、文学の自由単位授業に「アニメーションを文学的に読解する」というものが存在すると知ったのです。
しかも前年度は新世紀エヴァンゲリオンを取り扱ったと要綱に書いてあるではありませんか!!
当時コテコテに文芸野郎かつオタクだった僕は迷わず受講を希望。
(授業とはいえアニメを観ることで25分間くらいは潰せるので)人気の講義ではあったものの、無事に通年受けられることになったのです。
僕が受講していた時のテーマは、前期丸々使って「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」でした。
え、エヴァじゃないのか……。
若干落胆しつつも、当時話題にはなってたけどちょうど観たことないアニメだったので毎回ワクワクしながら受講しておりました。
当時のレポートもまだ残っています。(読み直したらオトナアニメ(雑誌)のインタビューなどを引用したマジでズルいレポートでした。アニメと向き合う姿勢が今と変わってねえ)
というか、せっかくなので公開しようと思います。
この講義、普通に映像を文学として読み取る姿勢とか、見るポイントみたいなのに関してはメチャクチャ影響受けたところがあったんですが、当時ずっと腑に落ちない部分がありまして。
それが、教授がやたら「あの花」と3.11の震災を繋げたがるんですね。
そもそもあの花って、子供の頃仲が良かったはずの6人組が、その中の一人であるめんまの死と喪失(しかもその子の死の責任が自分にある、と5人全員が各々思っている)によってバラバラになっていて、そんなある日主人公の目の前に死んだはずのめんまが成長した姿で現れて……。
という話なんですが、皆さん観たことありますでしょうか。
このめんまって子は川で溺れて死んでしまったんですが、そういう部分からも震災時の津波を感じさせる部分がある。死と喪失を乗り越える物語なのだ、と仰る。
でもこの作品、2011年の4月から放送されてたアニメなんですよ。
3.11の1ヶ月後。
そんなタイミングで実際の事件と創作物を繋げるか?と思うし、実際の企画立案の部分も考えたらあり得ない話のはず。
教授曰く「優れたクリエイターは現実に何か大きなことが起きる直前に、何かを受信して事件の前に作品を作ってしまうことがある」と。
いやいやいやそりゃーねーだろーと当時は思ってましたし、自分は福島出身なので、何勝手なこと言ってるんだ?くらいにはキレてた部分もあります。
で、今回のシンエヴァの第3村の描写を観て、ああなるほどと思えた部分がありました。
やっぱり順序的には逆(というか逆の逆?)で、「あの花」は震災に意識を向けた作品ではないと思います。
当時のA-1は毎回作りながらではなくアニメを完成させてから放送に向かってたはずですし。
大事なのはなぜそこを繋げて考えてしまうかということで、それはあのアニメが死と喪失と痛みを乗り越えるという一般普遍的な話だからだと思います。
人の死を乗り越えるとき、「なんにしても時間の経過が必要」で「喪失を抱えて生きながらも明日を向く」ことが必要なのは、別に震災に限ったことではなくて、皆が辛くて、でも理解している重要なことなんだなと。
なので、第3村の描写に関しても(僕は意識的に震災に寄せてるなという空気を感じましたが、それはそれとして)突然の死を目の当たりにしても明日を生きる人々、という受け取り方でも十分機能していると思います。
そういう意味でも、あそこは震災に関してはもちろん、もっと広い意味でも誰かの救いになれるようないいパートだったなと改めて思えたのでした。
今考えるとあの教授のエヴァの授業も受けたかったな。
あとこれはマジで余計な話なのですが、その教授の「優れたクリエイターは現実に何か大きなことが起きる直前に、何かを受信して事件の前に作品を作ってしまうことがある」という論(論というか感覚というか)を絶対に信じたくなかったのの一つの理由として、だったらまどマギを無視するなという気持ちが根底にあったような気がします。
3.11の震災のときのファーストインプレッションとして記憶に残っているのは、気持ち悪い縦揺れが起こった後すべての棚から吹っ飛んできたレンタルDVD(震災が起こった当時僕はさいたま市のTSUTAYAにいました。福島出身であるとは先に書きましたが、その頃はすでに関東の方に住んでおりました)と、家に一匹でいるはずの犬は無事だろうかという焦燥感、家に帰ってきてからNHKで観たウソみたいに高い津波に飲み込まれる街。故郷の福島がどうなっているのかという恐怖。
そして、セカンドインプレッションは魔法少女まどか☆マギカのワルプルギスの夜です。
これは決してふざけているわけではありません。
まどマギは関東では金曜深夜に放送されており、3/11(金)の時点で関西圏で先に第10話が放送された状態でした。
10話というのは、暁美ほむらがなぜ度重なる戦いに身を投じることになっていったのかが描かれており、そのきっかけになったのが美滝原に大災害を呼ぶ存在、『ワルプルギスの夜』です。
9話のラスト、人魚の魔女と化した美樹さやかとの戦いで杏子が戦死し、残る魔法少女は暁美ほむらと魔法少女としての契約前の鹿目まどか。そんな中、もうすぐ最凶最悪の魔女・ワルプルギスの夜が来てしまう!というところで、東日本大震災がまさに10話の放送日の昼に発生。
関西圏以外の視聴者は、しばらく10話を観ることができなかったわけです。
放送自体もストップし、当時はサブスクなどもなかったたため、そのまま4月の10話、11話、12話の一挙放送までは、全視聴者がこの作品が果たしてどうなるのか、というかそれ以前に日本はどうなるのか?という不安と共にいたと思います。
そんな大変な時期にアニメの心配してんじゃねーよとも思いますが、世間の全てに対して心苦しく思いながらも、当時僕は無事な自分が塞ぎこむわけにはいかんと必死に娯楽を漁っていました。子供だったので。
で、4月の一挙放送。
こりゃ確かにあんなことが起こったすぐ後に放送できねえわと。
僕は創作物と現実の情景が、ほぼぴったり一致するのを観ることになります。
大災害によって崩壊する見滝原が、現実の被災地の風景と完全に重なるのです。正直、あれを観たときが創作物を鑑賞していて一番気持ち悪く、また恐ろしかった瞬間かもしれません。
今でもあの作品は僕の恐怖の根源の部分に居座っています。
まあ、今になって考えると、当たり前だけどあれは情景だけが偶然リンクしているだけではあって(それも本当に恐ろしいタイミングだったと思いますが)、やっぱり別に超自然的な何かによって齎された先行創作とかではないのです。シナリオの内容を考えると別に重なる部分があるわけじゃないし。
「今になって考えると」というのが重要な部分で、やはりある程度の時間の経過があった後でないと、巨大な事件についての経緯含めた序破急は書けないわけです。
今「コロナ禍の世界」を描くことは出来ても、コロナ禍そのものの経緯を描く作品を作れないのと同様に。
■インターネット達よ、お前は今――。
ちょっと前項まででシリアスなことを書き過ぎました。
なので、最後にちょっと肩の力を抜かせていただきます。
今僕は、旧作のテレビシリーズのエヴァを観たり、パンフを嘗め回すように読んだり、ネットで皆さんのシンエヴァの感想を読み漁ったりしているわけですが、その中に、終盤の人類誕生以前からそこにあった謎の物体:ゴルゴダ・オブジェクト周りについての言及がありました。
それがこれです。
これです
これが何かというと、ウルトラマンAに登場するヤプール人配下の惑星で、ゴルゴダ星と呼ばれています。
ちなみにこの惑星は我々の次元とは違うマイナス宇宙に存在しているそうです。
……ちょっと本当に、まじめに考察している人たちがかわいそうになってきます。
あの辺なんかグダグダ言ってんなと思って途中からちゃんと聞いてなかったのですが、マジでただのパロディだったのかよ!
全員うっかり開きかけた聖書を燃やせ!!
ウルトラマンA自体の本編を観たことがないのでシンエヴァ鑑賞時もこれのパロだとは気づきませんでしたが、僕は子供の頃からゲスト的に助けにやってくるゾフィー兄さんが悲しいほどボコボコにやられるのを見るのがメチャクチャ好きなのでこのシーン自体は知っていました。
偽のウルトラサインで呼び出された四兄弟が、急速冷凍されて磔になるシーンなのです。
(たぶん、ウルトラ兄弟名シーンダイジェストみたいなビデオで、ガキの頃観たことがあったんだと思います)
これを見ると、アダムスの器の4体はゾフィー、ウルトラマン、セブン、帰りマンだったということになります。
それが分かったからなんなんだとも思いますが、こういう急なパロディを見せつけられるとなんか楽しくなりますね。
(あと新機体のエヴァたちがガンガン8号機に食われて合体していくのはウルトラマンAの他兄弟との合体必殺技であるウルトラQのパロだよ派と、オーバーラップ型8号機が他のエヴァ喰って合体してるんだからウルトラマンタロウの『ウルトラオーバーラッピング』のパロだよ派がいるようですね。みんなよく知ってんな……)
ウルトラマンパロとはまた別に、最近Twitterで流行り出している概念に「鈴原サクラ怪文書」があります。
こういうやつです。
僕はインターネットのこういうノリが超大好きなので、普通に爆笑しながら見ています。
Qでは「エヴァにだけは乗らんどいてくださいよ!」だけがキメ台詞だった鈴原サクラが、今や押しかけヤンデレ女房でクレイジー・ダイヤモンド。
Vol.2で僕は鈴原サクラの叫びは我々の叫びでもあるという書き方をしましたが、そんな子が我々サイドに大人気になっているというのはマジで面白いです。
よく考えたら、確かに鈴原サクラはシンジ君大好きで重くてかわいいかもしれない。
僕は映画を観ているときに結構裏を読もうとするというか、意外と視覚的・聴覚的に入ってきている情報を軽視しているときがあるので、アニメーション的にここの動きがどうのとか、このシーンのこのキャラは可愛かった!みたいな感想が出てきづらかったりします。
しばらく真面目なことを考え続けたので、2回目を観るときはもっと画面上のものをそのまま受け取るというか、アニメーション作品としてどうか、みたいなところに着目してみようと思います。
今声優さんのインタビューを読んでるから、声の演技とかにも気を配って鑑賞したいですね。