ジェノサイドから考える人間の優位欲
新疆ウイグル、ミャンマー、ルワンダ、ユダヤ、、、民族浄化という言葉は時代が移り変わっても世の中から消え去ることはない。個人的には「誰がどのような考えを持って生きていても良いのではないか。」と思うのだが、多くの人たちにとっては同質の中に異質が混じることに嫌悪感を覚えるようだ。
外国に出ると自分が日本人であると感じる機会は多い。同質の中で生きている日本に来ている外国人はそれ以上に「違い」を意識する機会は多いかもしれないが。
そもそも人は自分と異なる意見というものにとりわけ敏感であるように思う。会話の中にも節々に自分とは異なる意見に対して「それは違う!」と主張する場面に遭遇するし、相手を説得しようと持論、経験論を語り出すことは日常茶飯事であろう。それだけ、人というのは自分の考えに相手を取り込もうとする習性があるということなのだろう。
学校組織でも「集団性」というのを非常に大切にし、それとは異なる考え方や行動に対して無力化しようと様々な力が働くのは言うまでもない。日本はそれが顕著であるだけで、基本的にはどの国のどの学校でもそんなには変わらない。
このような同質性に対する欲求の規模を拡大していくと人種差別、そしてジェノサイドへと結びついていくように思う。人類の誕生はおおよそ700万年前。人類という形を取る前から基本的に生物というのは同質の中で発展してきている。「個性」などと言い始めたのはつい最近で今後も同質性を求める傾向は残念ながら続くものと思われる。
異質なものを受け入れるということには大変なことだという認識をまずは一人一人が持たなければならない。世間で言われる「みんな違って、みんな良い」は言葉で言うほど簡単なものではない。我々のDNA奥深くに刻み込まれた同質の中での発展という欲求に対して「NO!」を突き詰めるためには、人類最大の武器である「理性」と「知性」を持って意識的に対抗していくしかない。ダイエットだってそうだ。「美味しいものを食べたい」という欲求に対して「理性」と「知性」を持って対抗し、その結果。。というところである。
完璧に同質な世界など無い。自分の周りの人間関係を全て同質な人で固めたとしても、必ずその中で異質な人間は混じる。それも排除してということを繰り返すと最終的には自分一人という世界になってしまう。それだけ異質なものというのは常に混じるのだ。それであればお互いの世界観を大切にし、協力するところ、分かれるところを明白にした方が良い。異質な世界を認め、共に発展していくという姿勢は結果的に自分の利になり得るのだ。
世界を旅するTraveler。でも、一番好きなのは日本、でも住みたいのはアメリカ・ユタ州。世界は広い、というよりも丸いを伝えたいと思っている。スナップシューターで物書き、そうありたい。趣味は早起き、仕事、読書。現在、学校教員・(NGO)DREAM STEPs顧問の2足の草鞋。