パープルのクロコ財布
夜の丸の内。大きな商業施設はまだなかった頃。得意先のオープンレセプションパーティに行った時のこと。
大手町から向かうと人通りはそれほど多くなかった。暗い夜の中に灯っていた黄色い光が暖かい印象だったから、冬のことだった気もするし、急いで走っていて汗をかいていた気もするから、夏のことだった気もする。
丸の内の路面店で買い物をすることなんてなかった。だから、ひとりで店に入るだけでも緊張した。
挨拶をして中に入ると、担当者がちょうどこっちに来てくれた。担当者は、私より年上の男性だった。
そのブランドが高級フレンチならば、その人は居酒屋が似合いそうな人だった。さすがに、その日はびしっとスーツを着ていていつもとは違った印象だった。
高級な服や靴や小物を扱っている店で、私が買えるものはなさそうではあったけれど、ざっと店内を案内してもらっていた。
そこへ、いかにもという雰囲気で社長がでてきた。一度、飲みに行ったこともあったので、目の前にあった財布を紹介して、担当者と一緒にその場から去っていった。
こういう人は、不思議と魅力的に話をする。クロコの模様が大人に似合うこと、すごくいい革を使っていること、フランスから入れていること、希少価値が高いこと、イエローとパープルの2色展開であること。
内側のコインケースは、少し変わっていてこうやって開けるんですと目の前で開いて教えてくれた。
もしものためにお金は用意してきていた。以前にセールで買った靴はとても履き心地がよく、お気に入りだったから、もしこれだというものがあったらご褒美に買ってもいいと思っていた。
ちょうど財布が草臥れてきていたし、私好みのデザインだった。迷うのは、値段と色だった。
財布を買ったら中身がなくなってしまう。けれど、聞いた話からするとそんなに高い気はしなかった。
イエローは目立ちすぎるし、パープルはなんだかギラギラしている気がした。でも、内側を開くと落ち着いたブラウンで、ゴールドの刻印と金具と合わさるとパープルも悪くないと思い始めてきた。
他に興味のあるものはなかった。いや、財布が気になって仕方なかった。
大切に使ったらいい。そう思って、会計をしに行くと、社長と担当者がいた。
「これ、似合うと思いますよ。大事に使ってくださいね」と社長がにこやかに言った。
このとき、「これ使っていたら、いい女に見えるでしょ」とさっき社長がいっていたことを思い出した。
少し恥ずかしくなったけれど、とっても素敵なものを手に入れた気がして素直にうれしかった。
それから、私の相棒として大切に使ってきた。小銭やカードをパンパンにいれるとカッコ悪いことも、この財布が教えてくれた。
ふたつに仕切られた小銭入れの片方には、いつからか切符が入れられるようになった。今はほとんど使うことのない切符がまだ手放すことができずにここにいる。
東京メトロの一日乗車券。ほぼ毎日これを使っていた。定期も併用していたから、いつもなら二枚重ねて改札をでて捨てていた。
けれど、いつからかあの人との間にうれしい出来事があるとその日の切符は、小銭入れに入れるようになっていた。そして、少し貯まると引き出しにしまった。
日本橋のカフェで偶然出会った日、原宿のど真ん中で相合傘をした日、白金の公園でデートした日…。
今、日付を見ても何があったのかは思い出せない。けれど、こんなにたくさんうれしいことがあったのかと思うだけで救われる自分がいる。
あの人は、今どこで何をしているのだろう。元気にしているだろうか。元気だったらいいな。