評論漫談(理くつと面白み)第6回 「郷愁論・序論」 いつどんな時代にも、どんな世相の時でも、大人にも子供にも男にも女にも、ふと覆いかぶさって来る
人の心を強く揺さぶる感情に、郷愁があります。ノスタルジアという言葉も、ほぼ日本語の扱いです。
辞典ではその意味は明確です。(1)異郷で、故郷を懐かしく思う気持ち。
(2)昔のこと(歴史的なものと、幼年時代など自分のもの)や古いものを懐かしく思ったり、ひかれたりする気持ち。
どちらも、懐かしく思う対象は、今・現前はしていません。昔の物が手の中にあるとしても、その物体ではなく、その物体が存在した過去の、ある場所の思い出が、原因です。
しかしこの言葉は、「不在のもの」への想いという構造を核にして、広く根底的な意味でも使われています。
故郷や過去のことから離れて、更なる異郷へ、未来へと向い、放浪・さすらいへと誘う場合があります。生計と旅との合致を目指す者もいます。
或いは、今の自己存在を凝視して、定かならぬものへと感覚と思考を向ける者もいます。
今回は、郷愁論の基本的枠組みを検討しつつ、現時点での一定程度の具体化を、様々の作者の言葉をヒントにして試みます。
こんな胸がキュンとなる事態に、どんな「面白み」を接着できるというのでしょうか。
「郷 愁 論」 序論
心を揺さぶられて、求めるが同時に拒絶されている想いがある。
何に関する想いか、二つに大別できる。
一つは「既知のもの」である。
過ぎ去ったもの(幼年時代、歴史的なもの)と離れ去った場所(故郷)の、今・ここにおける不在から生じる、懐かしくかつ取り戻せないという想いである。
歴史的なものは個人史に関わらないが、知識として追体験して、自己の時間・経験と化している。また、故郷の町や村は、地面・家屋・動植物の集積として変わらなくとも、現在の記憶しか持たない。
二つ目は「未知のもの・無限のもの」である。
人生における、本来あるべきと思われる「何らか」の不在から生じる。
「人生というものに対して或る淋しい感」、「自然と比べて短い命を嘆かれ」(いずれも立原道造の橘宗利宛て書簡)と表現され、織田作之助は「郷愁」で、「いつどんな時代にも、どんな世相の時でも、大人にも子供にも男にも女にも、ふと覆いかぶさって来る得体の知れぬ異様な感覚であった。人間というものが生きている限り、何の理由も原因もなく持たねばならぬ憂愁の感覚ではなかろうか」と、極めて多面から限定的に、しかし実内容はほとんどなしに、描き切った。
一方人によっては、省察なしにあるいは省察の結論として、見知らぬ場所・人への湧き上がる憧れかのように、または自己に不在の時間と空間に対する復讐として、「知らぬ他国を流れながれて 夜風のように過ぎてゆく」、「いつになったら この淋しさが消える日があろ」(西沢爽「さすらい」)と歌うのである。そして更に一歩進める者は、あくまで実現のために、生計との融和を図る。旅行業関連を別にすれば、何があるのか。メディア・研究機関への各所・各人の情報提供か、自身のまとめ・編纂の公表か、国内密偵か、各地でする営業の現地提供か。
「何らかの不在」を生み出すものは、明白である。
意味なき生存(意義を見出し作り出し得るとしても)であり、永遠の命を欠いていることである。そうでなかったならばと、世界の果てへの呼びかけが繰り返される。
すると、過ぎ去り、離れ去ったものへの哀惜・懐かしみは、取り戻せはしないが故に当然としても、未知のものへと向かう郷愁・憂愁は、本来的には無くもがなのものと捉えられよう。
現在を超えて未来の彼方へと向かう郷愁の、その彼方に何を位置付けるべきか。それはすでに、意味なき実存、ニヒリズムの、克服という課題に合流しそうである。等しいものの永遠回帰、意志なき寂寥の断絶、土台条件たる動物としての自己認識などなど、答え(の候補)は充分に出されている。
あるがままではいけないかね。マンダン♪
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