僕がいつも何かに追われていると思っていた理由
幸せとは何なのか
過去に僕が幸せを感じたことを思い返してみた
○ボクシングの試合に勝利した時
○結婚を決めた時
○就職を掴み取った時
こんな時、確かに幸せを感じていた。
しかし、それ以上に「幸せだった過去」を思い返すと浮かんでくることがある。
それは、何気ない日々の生活だ。
○兄弟とお笑い番組を見て、笑い転げた日
○家族で外食に出掛けた日
○学校から帰ると笑いながら迎えてくれる祖父母
○妻がつくった夕食を一緒に食べる時
そんないくらでもあるような日常が何よりも幸せだったのだと気づく
それは現在でもそうだ。
妻がいて、小さな命も授かっている。
それだけでも十分幸せなのに、なかなか気づけないでいる。
なぜ、幸せに気づけないのだろうか?
それは僕の考え方が原因だと思う。
ーーもっとこうなりたい
ーーこうならなければダメだ
ーー負けたくない
と、いつも何かに追われているように感じているのだ。
常に努力していないと、負けてしまいそうで不安で仕方なくなる。
はて。
というか、僕は誰と何の勝負をしているんだろう。
いまは戦国時代でもない。
誰かに命を狙われているわけでもない。
飽食の時代であり、僕にはそこそこの貯金も収入もある。
もし、戦っていた相手がいるとしたら
それは、劣等感まみれだった過去の自分自身ではないだろうか。
とても華やかとはいえない学生生活だった。
その劣等感から、僕はより上を求めて追われるように努力しているのかもしれない。
でももういいんだ。今現在が十分に幸せなんだ。
もちろん、向上心をなくしたわけじゃない。
でも向上するために、大切な今日という日の幸せを見過ごすなんて本末転倒だ。
何でもないような今日という日が、多分、10年後には幸せな日々として思い出されるだろう。
そんな目の前の幸せを掴み損ねるような人生は嫌だ。
過去の劣等感と戦う必要なんて、何ひとつない。
だから、今目の前にある幸せを全力で噛み締めようと思う。