「なんだかな」の3つの理由 映画「シェイプ・オブ・ウォーター」”美女と野獣”なのだけど(ネタばれ有)
鳴り物入りの映画だったのだが、なんだかな、なのである。
映画「シェイプ・オブ・ウォーター」。
その、「なんだかな」が、何なのか、ずっと考え続けている。
米アカデミー賞の作品賞、監督賞など4部門受賞作品である。ベネチア映画祭でも金獅子賞を獲得。名匠・ギレルモ・デル・トロ監督による話題作であることは間違いない。
1962年米国の、とある秘密研究所を舞台にした「美女と野獣」だ。ディズニー版で、美女ベルに横恋慕した乱暴者ガストンが、邪魔な野獣を殺そうとして死んでしまうがごとく、デル・トロ監督の本作でも、“美女”を嗜虐の対象として見初め、野獣をなぶり殺しにしようとつけ狙う悪い男は最後に倒される。「愛が勝つ」ハッピーエンドではある。
ただ、一筋縄ではいかない。デル・トロ作品でのベル=イライザは賢く勇敢だけれど絶世の美女ではなく、幼少期の虐待により声が出せない。完全無欠ではない“美女”だ。野獣はアマゾンで「神」とあがめられていた“創造物”(クリーチャー)で、魔法が解けたら王子様に戻るわけではない。さらに、“ガストン”=ストリックランドはサディストで、偏執狂的に “美女”イライザを追いかけ野獣をいたぶる。野獣を「クリーチャー(化け物)」と呼ぶ人間・ストリックランドの方こそ“化け物”であるという皮肉が効いている。
娯楽作品として楽しめる要素もふんだんだ。冷戦期を背景に、米ソのスパイ合戦があり、軍事転用を目論んで野獣の争奪戦が繰り広げられる。主人公イライザの住むアパートがあるのは、かつての牧歌的なたたずまいを見せる映画館の上だ。郷愁を誘う、60年代の映画やテレビ番組、レコード曲といった映像や音楽などの文化にもたっぷり浸ることができる。
筋立ても、ホラーかサスペンスかというような盛り上がりを見せる。スパイ大作戦かと見せかけて犯人捜しのドキドキがあり、追手から逃げおおせるかとハラハラさせられる。そして主人公は死なず。やられたと思ったものの、最後に奇跡が起きて、美女は助かり野獣と結ばれる。「そして二人は、永遠に幸せに暮らしましたとさ」という予定調和のハッピーエンドで、全般に「大人のためのおとぎ話」に仕上がってはいる。
であるにもかかわらず、だ。
冒頭に吐露した通り、「うーん、なんだかな」なのである。何がなんだかな、なのだろう——一つは、結局は、自分の世界を「捨てる」のは女性の方なのか、という構図に「やっぱりね」な残念さを感じる点だ。
物語を単純化すると、こうなる。社会にうまくなじめない異分子である男性と、その彼を認め、コミュニケーションを図ろうとした唯一の理解者である女性が恋に落ち、死にそうな彼を救うため、女性は現在持っている環境、仕事も友達もすべてを捨ててついて行く。
彼女が「捨てる」環境は、捨てても惜しくはないような設定ではある。だが、結局、相手に寄り添い、理解し、自分をなげうって、愛のために闘うのは女性の方なのだ。愛のために、すべてを捨てるのは女性の方なのだ。という設定そのものに男性上位的な視点を感じてしまう。(もちろん、今作の設定では野獣が人間界で生きていくことはできないのだから、女性ではなく男性に世界を捨てさせるためには、女性が野獣で男性が“美男子”とならないと成り立たないのだが)
もう一つの「なんだかな」の要因は、一つ目の視点に通じるが、突き詰めれば、結局、「幸せを手に入れた」のが野獣の方だった、という点だ。しかもこの野獣は、自分からは闘わない。ただ「美しい」(見る人によっては「醜い」)だけで、「何もしない」ヒーローなのだ。
こちらも単純化のために、野獣視点で物語を見直してみよう。異分子である野獣が、ひょんなことから人間に捕まえられ、自由を奪われ、本来の環境とは違う世界(異文化)で酷い扱いを受け、絶対服従を誓わされる。そこへ現れた「美女」が、異分子である自分をなぜかそのまま受け止め、受容し、愛してくれ、そして、圧倒的な暴力性で異文化を押し付けてくる「敵」から救い出してくれる。野獣が本来の自分を取り戻せるように奔走してくれ、守ってくれ、挙句、自分の世界に一緒について来てくれる。
野獣がしたことといえば、最後に死にかけた美女を自分の世界へと連れ帰ったことだけだ。敵との闘いでは無力で「何もしない」。宮崎駿のアニメ作品によくある「女性に守ってもらうだけのヒーロー像」に通じる。つまりは野獣=男性側は何も変わらず、美女=女性側だけが努力し闘う関係は、野獣たる男性側にとってだけ都合のいい関係性に見えてしまうのだ。
そして、「なんだかな」の原因の三つ目は、結局、「それでも普通の人々にとっては、日常は続いていく」という無力感、徒労感にある。美女と野獣が幸せに暮らしましたとさ、というハッピーエンドに異を唱えるわけではないのだが、でも、残された者たちはどうなるのか。彼らには「終わらない日常」が待っている。「この世を捨てた」美女と野獣だけが幸せになって、彼女たちを助けようと協力し奔走した友人・仲間たちは、この世に取り残される。
残された者にとっては、世界は生きにくいまま。何も変わらない。イライザの掃除婦仲間の黒人女性ゼルダは、夜勤の清掃作業から疲れて帰って来ても、カウチポテトの夫は働きもせず口うるさいだけ。そんな暴力的で横柄な夫に奴隷のように仕える毎日がこれからも続くだろう。イライザの隣室に住む同性愛者の宣伝画家ジャイルズは、孤独で恋人も友人もいない。唯一の友人だったイライザもいなくなった。写真全盛の時代の波に押されて、宣伝イラストの仕事もない。孤独と貧困と老いが彼を待っている。イライザの野獣脱出計画を手助けしたソ連のスパイ・ホフステトラー博士に至っては、野獣追跡作戦の中で、残忍なストリックランドによって惨殺されてしまった。
ジャイルズが、映画の終幕にモノローグを語っている。「二人は永遠に幸せに暮らしました」と信じていると。そう思うことで救われるのだ、と。主人公たちは「あの世」で幸せに暮らしましたとさ。ジャイルズやゼルダら彼女の周囲の人々の現実は変わらないのに。生きづらい日々は続いていくのに。ただ、ひと時、主人公たちの「幸せの手伝い」をしたことで、「幸せな気分のおすそ分け」をしてもらえただけで、幸せな気持ちになれる、と。
美女と野獣だけが幸せになれれば、それでハッピーエンドなのだろうか。幸せになれない周囲の人々は、主人公らの幸せの手伝いをしたという「誇らしさ」や「思い出」だけで、満足すべきなのだろうか。主人公だけが良ければいいのか。自分たちだけが良ければ、助けてくれた周囲は救えなくてもいいのか。
そこに、現在の米国のトランプ大統領の「一国主義」「狭いナショナリズム」に通じる勝者・強者・主役の身勝手さを感じてしまう、と言えば言い過ぎだろうか。
でも、だから、「うーん、なんだかな~」、なのだ。
(2018・4・15、元沢賀南子執筆)