
明日は今日より素晴らしい、じゃなくて、今日は今日で素晴らしい。 Good bye to "Better than today"
「そもそも、我々は自分のおじいさんやおばあさんの生きていた社会よりも成長した社会に生きるのが当たり前だし、自分たちの子孫もそうだと思っています。でも、このようなことが起きているのは数千年、数万年の人類の歴史において、世界システムが始まり産業革命が起きてからのほんの数百年間のことに過ぎないのです」
やっかいなことに、科学技術・医学の発展のおかげで、人の寿命が飛躍的に伸びて、おじいさん・おばあさんの数が飛躍的に増えてその負担がとんでもなく増大するという歪みが生まれてしまっているのです。これも、ある意味、科学技術、〝アトム〟が人を不幸にしていると言えるかもしれません。
GWなので、カフェに籠もって、いろんな本を読んでいる。
その中で印象的だった本、それが、『なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?』という本だった。
冒頭で引用した通り、今日は明日よりも良いという世界は、いつも当たり前だったわけではない。ここ70年くらいで急に現れた新現象という事らしい。
ずっと疑問に思っていたことがある。
それは、なぜ成長し続けなければいけないか、ということ。
良い高校
良い大学
良い企業。
より高い収入
より良い家
より高級な服
より高いレストラン
なんで、よりより明日を目指してずっと生きなければいけないのか
もちろん、明日をよくするために努力することを否定するつもりはないし、それも1つの生き方としてはありだと思う
自分もたくさんの資格を取ったり、勉強したり、運動をしたり、世間で言われている意識高い系になろうと色々やってみたこともある
(その中のいくつかの習慣については、今も続けようと努力している)
その中でやっぱり思うのは、「明日は今日よりも良い」という考え方が、人の物差しで決められているということ。
長く短い人生の中で、明日が必ず今日よりもよくなければいけない、なんてことはない。
たまには、向上心を捨てて、心のままに、ダラダラと過ごす事だって、必要だったりもする。
自分と最後に話したのはいつだろうか?
こうして記事を書いている時、自分と向き合って、相談して、文章を書いている実感がある。
けれど、普段のネットサーフィンでは、その感覚はない。
なんとなく時間を過ごすことは、昔は電車で窓の景色をぼおっとみたり、なんとなく行き交う人をカフェで見たり、本を読んだりすることだった。
けれども、今は電車を見ても、スーパーマーケットに行っても、人々はスマホの小さな画面を見つめている。
家族でカフェに行っても、スマホを見て、目の前の人をみない、話さないなんてことは当たり前の世界。
何が言いたいかというと、そのスマホから大量にインプットされる情報で、目の前、今日という時間に愛おしさを感じられなくなるリスクがあるということ。
能動的に何かを調べ物するときはいいかもしれない。けれども、インターネットでの能動的な調べ物には、たくさんの誘惑があって、気付いたら、広告の海に飲まれて、本当にやりたかったことが見えなくなることも多い。
インターネットにこんな文章を書いていておかしいけれど、アウトプットしなければ、インターネットは、肥満製造マシーンかもしれない。
無限に広がる情報をインプット、食べまくれば、それは飽食である。
消化することなんてできない。
消化できなければ、不健全になっていく。
こうして私たちが元気でいられるのは、適切な運動と食事をして、身体が調整してくれているからである。
インターネットが出た時、これはすごいと思った。
小学生の時の自分には魔法の箱のように思えた。
調べたいことがたくさん出てくる。
まだインターネットに情報がそこまでなかったから、面白いページを何度も見て、ふむふむと頷いていた。
今は違う、底知れぬ情報の海なのだ。
適切な泳ぎ方を知らなければ、溺れてしまう。
明日が今日より良いっていうのは、大事な考え方。
けれども、それは本当に自分でそう思っているのか?
流れるニュース、インスタ、ネット記事に踊らされているのではないか?
便利になりすぎたからこそ、適切な距離を取ろう
2度と戻らない今日という、今という瞬間を抱きしめよう、GW最後の日、ちょっぴり明日からのことを憂いながら、そんなことを考える