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【毎日漢字1文字ブログ (3)】 稔


いや「稔」って・・・日常会話で一回も使ったことないよ・・・

本編

僕にとって、幼い頃から正月というのは
楽しくない行事であった。

理由は大きく二つだ

①大人たちが朝から酒を飲むせいで遊びに付き合ってくれない
②おせち料理が美味しくない

正月よく訪れていた祖父母の家は、昔はお重+追加でいくつか買い足したものを
1日の朝から夕方くらいにかけてずっと食べる、というのが恒例だった。
そして大人たち(特に父と祖父)は、前日の大晦日の夜「ドラえもんの大晦日スペシャル」が始まる頃には生ビールを開け、「ドラえもんの大晦日スペシャル」が終わる頃にはいつの間にか熱燗に切り替わり、次の日の朝にもまだリビングのテーブルの上には徳利が残っていた。その徳利は一度洗われたのち、またニューイヤー駅伝とともにテーブルの上に置かれるのであった。

そんな酔っ払いたちに、子供の相手をしている余裕などあるわけがない。

子供たちは、祖父母の家というあまり見慣れない環境と、正月という一年に一回しか楽しめない貴重な期間を、余す所なく堪能したいはずなのに
堪能させられる相手は誰もいない。

普通であれば、凧揚げ・羽根つき・福笑いといった選択必修科目を履修するはずなのだが、なぜか僕は坊主めくりという一般教養のみを履修してしまった。

それも含め、お正月は子供たちではなく大人が飲み騒ぎするイベントなのだなと痛感した。

そしてなにより、おせちが本当に苦手だった。
そもそもおせちは、(先人たちが発見したシャレも含めた)昔の願掛けのために、人々が食べていたようなものであるが、
それもまた昔の時代。

今はデパ地下などを見ても、願掛けよりも食べやすさを重視しているようなものも少なくない。
ローストビーフのどこがどういう部分にかかっているのかなんて、デパ地下の販売員ですらわからないだろう。

特に、子供がいる家庭の場合はわかるかと思うが、子供が食べられるものなぞ本当に限定的である。数の子のような独特な食感を持つ「おとなの味」のもの、なますのような酸味が強いもの、などなど、食べられないものばかりでむしろ食べられるものを数える方が早いくらいだろう。

かくいう僕も昔は本当に嫌いなものが多く、逆に食べられるものと言ったら

  • 栗きんとん

  • 伊達巻

  • 羊羹

  • 黒豆

  • かまぼこ

程度だ。
これしか食べられなくても、「いい門出となり、そこから先もまめに暮らせてお金も集まる」という願掛けは果たしているのだから、素晴らしい1年を過ごせそうである。

その中で、ぎりぎり食えるかどうかのラインというのが「田作り」である。
数の子やなますに比べたらギリ食えるけど、黒豆や栗きんとんほど食べるものではない、というラインだ。

前述の通り、少し多めのおせちを1〜2日かけて食べるのが我が家の風習だったため、
最後の方は消化試合である。

その消化試合のタイミングで、幼き頃の私の箸が向かう先は「田作り」一択である。

田作りは、原料の乾燥イワシが昔田んぼの肥料として使われており、乾燥イワシを肥料とした田んぼが豊作につながりやすかったことから、豊稔を祈るものであるほか、イワシが群れで泳ぐことが多いことから子孫繁栄の意味合いも持つと言われている。

また、「実る」という言葉が「稔る」と書かれることもあるようで、ここからもわかる通り、昔は穀物、特にお米が中心な食生活だったからこそ、食用植物=お米という感じだったのだろう。

ただ、とは言ってもだ。仕方なく食べていたからという思い出もあるのかもしれないが
五穀豊穣を祈り、豊稔を願う食べ物の願掛けが、
まさかの穀物ではなく魚なのはいささか理解できない。

せめて米を使った何かの方が納得できる。
なぜイワシなのだ。
子孫繁栄なぞ数の子で事足りるのではなかろうか。
というか、五穀豊穣とはどのスケールの話をしているのだろうか。家庭単位の話なのか、国家単位の話なのか。家庭単位の話なのであれば、家庭菜園程度でも五穀豊穣とはまた不思議な話である。

小さい子に子孫繁栄なんぞ早すぎるのではなかろうか、それこそ学業成就とか、必勝祈願とか、交通安全とか、その辺を願掛けとしてもじった方がいいのではなかろうか。

そんなおせちに対するイチャモンを頭の中でつけつつ、今日引き当てた「稔」をどう調理すべきか、とりあえず熟語を調べてみたところ、ふと気になるところがあった。

「稔」という時は直接的には農作物が実ることなのだが、そこから転じた意味として成果が上がることを含んでいる。

例えば、

  • 稔熟:物事が成熟して実を結ぶこと

  • 稔績:努力の結果として得られる優れた成果

などである。
先ほどの「田作り」がもつ「子孫繁栄」の意味もそうだが、正当な意味・表層的で一般でよく言われるものと同時に、「ついでに」みたいなノリで、どこかしらに「転じて」から始まる深層の意味を抱えている。
日本語だけでなく英語、もとい英単語の日本語訳でもよくあるし、もっと拡大解釈するなら人間同士のコミュニケーションもそうかもしれない。

おそらく田作りも、メインで五穀豊穣・子孫繁栄はありつつも、本当は実を結ぶこと、成果を出すこと、今でいう必勝祈願的なものも含まれていただろうし、
大晦日から元日にかけてお酒を飲み続ける僕の親戚たちも、きっと僕と同じような「正月という一年に一回しか楽しめない貴重な期間を、余す所なく堪能したい」に加えて、「親族と腹を割って、機会を設けてざっくばらんに話すという貴重な時間を、余すことなく堪能したい」という本心があるのだろう。。。

そんなことを思うと、少しだけ田作りが食べたくなる。
そうだ、明日はスーパーでカタクチイワシのつまみでも買ってみるか。

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