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幸せを感じるための器


じぶんの心が感じていることが、じぶんの幸せ。

昨日、Mori HikariさんのYouTubeに癒されながら
掃除をしていたら、耳に入っていた言葉があって。

『家族と一緒にご飯を食べているだけで幸せ〜』

みたいなことを、Q&A動画で答えていて。

(ながら聞きだったから、うろ覚えだけど🥹)

これを聞いたとき、

『わたしはこういうときに幸せを感じます』とか『わたしの幸せはこれ!です。』

と、肯定するって、怖いよな〜とふと思った。

怖いというか、

自分はこんなときに幸せを感じるー!
って、感性はしっかり感じてるはず、

けれども、

自分が感じているものすら、
人と比べてしまうこともあるな〜って。

無自覚に、いつの間にか、比較してる。

'' 本当はわかっているはず '' のことって、

自分と向き合ったときに、

'' やっぱりこれが幸せ!! ''
と、気付かされる場合が多いんじゃないかな〜

それは、初めての発見じゃなくて、もうすでにわたしが '' 感じていたものもの '' の中から。


『じぶんの幸せってこんなんなのかな?』

と、思っているときがあって、

なんていうか、

『もっと大きいスケールじゃないの?』

って、自分の感じている感性を疑っていたときがある。

誰かの幸せとか、一般的に言われているものとか、キラキラしているな〜って思う人たちと、比べてたんだと思う。

じぶんの心が感じているものが大事なのに、
他の誰かの基準が、自分の基準に。

あとは、目的。

'' 良いとされるもの ''につられて、
じぶんの心は置いてきぼり。

外側から引っ張られて、
自分の内側は無視してしまう感じ。

誰かの良いことって、
わたしにとって、良いことなのかな?

受け止めることが、怖かったんだと思う。

だから、ずーーっと満たされてなかった。

どこかに穴が開いてるみたいな感じで、
感じたものが貯まらずに、漏れてた。

受け止めるだけでOKなのに、
それをできない自分が長らくいた。


その感情があっての、わたし。

幸せを、受け止める器というものがあって、

嬉しいことも楽しいことも、
恐れや悲しみも、表裏一体というか。

じぶんの受け皿次第なのかな〜

’’この人だから’’
’’こういう環境だから’’

の以前に、

例えば、わたしがMori Hikariさんの立場に立ったとしても、わたしでいる限り、わたしの感じ方でしか、幸せは受け取れない!

と、思うと、たくさんじぶんの幸せを受け止めていこ〜って思った🤭✨







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