実家の取り壊し 〜東日本大震災
いよいよ大宮町の実家家屋の取り壊しの日が決まった。
祖父母の代に建てられ私自身高校生時代を過ごした家だ。
地震発生の翌日、周辺一帯が瓦礫の山と化した中で
向かいの家に守られるように生き残った家。
流されていればその二階に避難した母の命もどうなっていたかわからない。
道路の確保のため、震災後一週間ほどで家の前にあった瓦礫は移動され、
六月ごろに遺体捜索のために一階部分の家具類が整頓された。
そして取り壊しが決まり、そこにあった家具を撤去してもらったのだが、
露になった傾いた柱が、生前床に伏しがちになった祖父母の
下着からのぞくか細い足のように見え、この家が最後の役目に
母を守ってくれたような気がした。
取り壊しの日が決まったと聞いて、落ち着いている自分に驚いた。
狭い庭だったが祖母が、好きな草木をいっぱい並べていた。
春先に咲く沈丁花の甘い香りをかげば玄関先が目に浮かぶ。
小屋も置けないスペースに無理やり犬を飼っていた。
二人立ったら身動きのとれなくなる台所で、祖父が、母が、
小気味良いリズムでまな板の音を立てていた。
祖母はコタツで居眠りしながら時代劇のチャンネルをゆずらなかった。
客の見えない日はなかった。夜更けまでおしゃべりに興じる
母と友人のすぐそばで、何の気なしに祖父が布団をひいて寝ていた。
弟は電気を消して風呂にはいる癖があって、それに気づかず
私も入ろうとして何度か二人で悲鳴をあげた。
思い出だらけの家だけど、震災の日に別れはすませたのかもしれない。
よろけそうなまま立ち続けているあの家を
休ませてあげたいのかもしれない。
町を飲み込む、信じられないほどの広範囲で甚大な被害を
目の当たりにして、何かを失う悲しみが麻痺しているのかもしれない。
命を失ってもおかしくない状況で、辛くも無事でいられたことに
何よりも感謝しなくてはならない。
祖母は私が祖母のお気に入りの食器を壊してしまっても
「形あるものだから仕方ないっちゃ」と言って叱らなかった。
できるだけ見つけた写真は家から取り出したけど、
思い出のシーンはその何倍も記憶の引き出しの中にある。
祖父母や母がそうしたように、折々に私も家族にそれらを話していこう。
いつか形あるこの体はなくなるけれど、
目に見える命も目に見えない命も大事にしていこう。