調節された感情
感情というものがある程度自分の意志でコントロールできると気付いたのは、昨年ごろだったと思う。
そして、それがそう簡単なことではないと改めて気付いた。
一生感情の波に上がったり下がったりしながら生きてきた自分にとって、安定した感情状態を持つことは不可能だと考えていた。
それにもかかわらず、毎回少しずついろいろな試みをし、パターンを変えてみるうちに、自分という人間への理解度が大いに高まり、
今では感情というものを十分に自分の思うままにコントロールできる大人になったと思っていた。
しかし結局、感情という複雑な歯車を動かすには、ごく微細で些細な要素がすべてきちんと噛み合って動く必要があった。
つまり、いくつかの要素を少しでも気にかけなければ、感情というものはまた勝手に動き始める。
現在把握している自分の感情に大きく関与する要素
1.睡眠時間
無条件に8時間以上寝る必要がある。時々断続的に6時間半しか寝ない日もあるが、1週間の総量で見た場合、確実に他の日に影響が出る。
2.空腹感
お腹が空くと苛立つ。昔はこれのせいで日常生活ができないほど満腹にこだわっていたが、今はだいぶ改善された。
3.朝起きて最初の行動
本当に驚くことに、起きてすぐに携帯を見て目覚めた日は一日中感情の起伏が激しい。起きて最初の行動を自分の意志で選べるなら、その日はある程度コントロールが可能だと思う。
とても些細な要素だが、これらに加え、運動や食事、家の掃除の状態、その日の読書の有無など、感情の起伏に影響を与える要因は他にも存在するため、これを毎日守るのは難しい。
分かっていることと実際に行動することは違う。時々気を抜いてしまうと必ず感情の高低差が大きくなり、無意味に虚しくなり否定的な感情を感じる頻度が高くなる。
結局のところ、完璧な一日を過ごすのは難しい。
その代わり、起伏の激しい日の被害を減らさなければならない。
本当に難しいことだ。
何年もかけて、もしかしたら一生をかけて安定した心を持つように努力してきたが、今でも思うようにならない。
一方で、残念な気持ちもある。
アイロニーだが、感情の幅が大きいほど引き出せるアウトプットは美しくなる。
実際に文章を書くスタイルも大きく変わった。以前の文章が持つ文学的な楽しみを今はだいぶ忘れているように思う。
文章を書く行為に慣れて効率を追求するほど、
論理が強くなり、文章の構造がしっかりしてくるほど、
その文章の響きが少なくなるように感じる。
以前の自分の文章は完成度が低くても、文章に詰め込まれた感情が作り出すハーモニーは本当に美しかったと思う。
どうすれば以前持っていた感情の線を維持しながら、
平穏な日常を過ごせるのだろうか。
読みやすい文章を書くために文が短くなり、段落を頻繁に分け、空白が多くなるのが本当に進歩だと言えるのだろうか。思い返してみると最近は五文以上続く段落を書いたことが一度もない気がする。自分にとって文章を書く行為はただの自己反省と内省のためだったのだろうか。もはや自分にとって文章を書くことは創作ではなく記録と回顧だけになっている。
それならば今の自分は以前よりも進歩したのか、それとも別の道を歩んでいるのか。過去を否定し前進することだけを考えてきたが、過去のすべてが本当に改善すべき点だったのか、それとも大切に守るべき宝物だったのだろうか。結局この方向性を確立しなければ、今後取るべき行動様式が定まらない。
自分を失わないこと、
それが難しい。
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