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陳老師(仮):ちんろうしカッコかり
書かれた文章というのは記録だ。
記録は積み重なって、後の時代に残り歴史となる。
記憶だけではあやふやなもの、
それを形にすることができるから、文章それ自体が力の源泉になるだろう。
当時の為政者は文字のそういう性質を良く知っていたので、文字を学ぶことを特権階級のモノとして、庶民には厳しく制限したという。
それから時は流れて現代。
庶民でも文章が書けるようになったのだ。
なったのだ?
別に「なったのだ」
なんてことを言うまでもないのだけれど。
こんな僕も文章をこうして時々書いている。
そして、少し前の文章を読み返すと
「ほうほう、なかなか面白いことを書きおるわい」
と、自分のことながら老師みたいな口調になる。
白髭を生やした、見た目はヨボヨボしているけれども、実はめちゃくちゃ強い老師みたいな感じで言いたくなりがち。
どうやら、時間というものは一定方向にしか流れないようで。
過去の自分よりも、現在の自分の方が老いている。
老いたほうが必ずしも賢いわけでは無かろうが、
長いこと人生を生きているのは間違いない。
時間が経てば何かしらの変化が起きているのだろう。
何かが変化することが時間が流れるということだから。
あるいは何か変化していると認識することができる状態のことを、時間が流れていると呼んでいるに過ぎないのかも。
自分で書いた文章なので、全部が全部が面白いわけではない。
何か面白いことを書いてやろうという自意識が透けて見えて、気持ち悪かったりするものも多い。
だからこそ、できれば後から読み返してみて、
「ほほう、なかなか(当時の自分にしては)面白いことを書きおるわい」
とほくそ笑むことができたら、そんな文章を書くことができたらこれはラッキーなことである。
たとえば、この文章とか、自分で書いたのに少し面白かった。
今考えていることと、共通点がありつつもすこし視点が変わっているという点でも。