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米津玄師6thアルバム『LOST CORNER』収録の新曲たちについて語り尽くす【感想/考察】

人生を変えた曲は『しとど晴天大迷惑』、カラオケの十八番は『LOSER』、ウッディです。

今回は筆者が敬愛してやまない米津玄師氏のニューアルバム『LOST CORNER』で登場した新曲たちの魅力を、主に歌詞に着目しながら、およそ8000文字以上でとことん語りまくった。

少々長く感じるかもしれないが、このアルバムについて必ず新たな気付きや発見を得られるとお約束しよう。

少しずつゆっくり目を通していただければ幸いだ。

痛烈なる苦悩をぶちまけた『RED OUT』

レッドアウトとは、航空機のパイロットの頭部方向にGがかかり、血液が眼球内の血管に集まることでパイロットの視野が赤くなる現象を指すという。

その際、頭痛、眩暈、キラキラした何かが見えるなどの症状が出るらしく「頭痛く酷く」「輝く夢を見る」といった歌詞にも表れているように思う。

タイトルだけ見れば「赤色の外に出る」「赤色を外す」「失格の赤色」などとも捉えられるかもしれないが、歌詞には「視界はレッドアウト」とハッキリ表記されている。ダブルミーニングの可能性は捨て切れないが。

さて、この曲はとにかくAメロの歌詞が美しいと私は感じた。

頭痛む酷く
波打つ春 咽ぶ破傷風
輝く夢を見る
それは悪夢と目覚めて知る

一瞬俳句かと思ったわ。間違いなく令和の名句である。
静かにただ美しく苦悩と痛みがこれでもかというくらい詰め込まれた歌詞に、あの低く繰り返すサウンドが合わさる。すると抜け出せない苦悩の中でうなされ続ける姿が目に浮かんでくるのだ。

美しい日本語を並べ立てたかと思えば、その後は米津玄師史上稀な、立て続けの英単語。

余談だが彼は略称や固有名詞以外では歌詞に「英語表記を入れない」ため、今回も全てカタカナ表記だ。

(「それでも飛び交うETA」や「呼べよJAFを即行」などがその例外に当たる。『KICK BACK』は歌詞を引用しているので英語表記がある)

イケイケな曲の時は横文字が増える傾向にある。

そして何より印象的なのは可愛いウサちゃん「消えろ」の連呼だろう。
取り憑く幻影を払うような叫びには心動かずにはいられない。
既にカラオケ配信もされているので、是非嫌いな上司を睨みつけながら歌っていただければと思う。

万感の思いでファンファーレまで あとジャスト八小節

という歌詞通りそこから八小節で曲が終わるのも鮮やかな遊びでありながら「ようやく作曲の苦しみから解放されるぞ!」という気持ちも伝わる。

彼はよく「曲は降りてくるものじゃなく這いずり回って作る」といった持論を語っていた。

菅田将暉のオールナイトニッポンにゲスト出演した際も「『曲が降りてくる』というのはどんな感覚か?」というトークテーマに対し彼は「降りてくるっていう言葉があんまり好きじゃなくて」「俺は、曲を作る時は結構、色んな可能性をひたすら潰していく作業っていうか(中略)俺の感覚としては、這いずり回って探してる感じっていうか」と述べた。

彼にとって音楽を作るというのは最上の喜びであり最上の苦悩であることだろう。

至高のボツ曲『マルゲリータ+アイナ・ジ・エンド』

さて、今作においての筆者のお気に入り楽曲の一つであるこの曲についてお喋りをしよう。

タイトルを見た時「もしかしてナポリの男たちへのラブソングか?」と期待した自分がいた。

元々ジョージアに提供した『毎日』のボツ曲として生まれたというこの楽曲。

本人曰く「コーヒーのCMにマルゲリータはないだろ」という事だったが、コーヒーのCMに「クソボケナス」はいいんだ……と我々は思った。サビに使われてないからセーフということなんだろう。
銀魂のアニメ主題歌『遠い匂い』も2番では「セックスと〜♪」とか歌っていたし。

「愛情とか性愛を想起させるような曲ではあるのだけど、「毎日つまんねえな」って喫茶店でダベりながら言い合ってる、(内面的な意味で)同じ方向を向いた2人を描いた」と米津氏は語る。

そういうのがいっちゃんエロい音楽だと理解しているのが彼の恐ろしいところだ。

彼は性愛の暗喩に恐ろしく長けた男であるのはファンの間では周知の事実だろう。
『クランベリーとパンケーキ』における「ランドリーまで歩いてこうね 汚れたシーツを洗おうね」は流石に経験の豊富さを滲み出させたドスケベフレーズだったのは疑いようがない。

ちなみに歌詞に出てくる「XOXO」はキスとハグのスラングであると同時に、誠実、愛、友情の意もある。

米津氏はよくキリスト教的表現を用いるが、この「X」も元はキリスト教の文書に「X」を署名代わりに書き、十字架にキスをするようにこの「X」にキスをしたのが起源とされているようだ。

この「XOXO」の歌い方がまあお2人とも素晴らしく。
非常にセクシーな楽曲となっている。

激しいのをもっと頂戴
突き抜けてクラっとしちゃいたい
天にまします蛇みたいに

に出てくる「天にまします蛇」とはこれまたキリスト教的表現だが、天に居る蛇といえばキリスト教におけるアダムとイブ(エバ)の話を浮かべる人も多いだろう。

蛇は欲に導いていく存在であり、ギリシャ神話では「異性の象徴」ともされている。

どちらの神話でも性や生命、欲にまつわる存在であるというのが実に面白いところだ。


カラオケで『打ち上げ花火』をデュエットしたカップルがその後『マルゲリータ』を歌えば、お互いのまた違った色気が見えてくることだろう。

不勉強なもので筆者はアイナ・ジ・エンド氏のことをあまり知らなかったのだが、掠れた魅力的な低音を持つ女声が好きな筆者はピザの角で頭を殴られたような衝撃を受け、まんまとハマるゲリータしてしまった(は?)

ファンにはお馴染みの標識『とまれみよ』

タイトルを見て「おっ!」と思ったファンは多かっただろう。

米津氏の9年前に発表した楽曲(9年前!!!???)である『アンビリーバーズ』のMVに登場した特徴的な標識に「とまれみよ」の文字がある。

米津氏はこのアルバムについて「初心に戻る」という事を語っていた事から、なんとなく関連性を想像してしまうのは仕方がないかもしれない。

ベースラインのイカしたこの楽曲は今回のアルバムにおける筆者の超お気に入り曲だ。
トラックも歌い方も洋楽的でオシャレな雰囲気であり、米津氏も踊りながらデモを作ったというノれる音楽。
しかしながら歌詞は決して明るいばかりではない。

はい さよなら描いてた未来
この先誰も知らない
とまれみよ 笑えないぞ
酷い迷子 呼べよJAFを即行

思い描いていた道に進めていない迷子のような状態を描いているが、それでも「止めてみろ」と語りかける誰か。まるでドライブをしながら自分自身と会話をしているような絵が浮かんだ。

なあ今どれくらい? 「50000マイル過ぎたくらい」
真っ黒こげのスムージー 頭痛に効かぬロキソニン
なあ何がしたい? 「例えるなら海が見たい」
並んで座るクリーピー 側を過ぎるディズニーシー

米津玄師、また頭痛に悩まされている。可哀想。

ディズニーオタクの筆者的には「側を過ぎるディズニーシー」というワードにワクワクしてしまうが、通り過ぎられてしまった。
「例えるなら」と言っていたので本当は海じゃなくてディズニーシーに行きたかったけど、運転手はその意図を汲めず通過してしまったのかもしれない。

並んで座るクリーピー(ゾッとする、不気味などの意)はその表現通り自身の不気味な亡霊のようなもので、自身のゴーストに語りかけては自己を確かめたり、囃し立てられたりしている歌なのかも?と筆者は感じた次第だ。

タイトル不明だった待望のセクシー曲『LENS FLARE』

昨年のツアー『空想』で突如アンコール曲として披露された楽曲。
階段に寝そべりながら歌うパフォーマンスがあまりにセクシー過ぎてまさにレンズフレアのように目に焼き付いていたが、正式リリースを強く望み続けたこの楽曲がついにやってきたとあって大喜びした。

ツアー以降大々的には何も情報はなかったが、彼曰く原題は『PERFECT BLUE』で、映画『パプリカ』などでも有名な今敏氏の監督作品『パーフェクトブルー』から着想を得た曲だという。

映画『パーフェクトブルー』は「現実と虚構」をコンセプトに描かれたアニメーション映画作品。

アイドルから女優に転身していこうという主人公の物語で、その最中インターネット上に自身をかたったストーカーに虚実織り交ぜた事を書き連ねるWebサイトを勝手に開設され、あることないこと書かれまくる。

まさに米津氏本人がネットであることないこと書かれてきた経験がきっとこの『LENS FLARE』にも表現されているのだろうと思うが、「自分や親しい人しか知らない、誰にも奪われないものが残っているから、もう好きに思ってくれて構わないと腹を括れるようになった」といったようなことを彼は語った。

私自身もSNSであることないこと書かれたり、ある人が保身のために私を売り、濡れ衣を着せられた上から言葉のナイフでズタズタに刺されまくった経験がある。

SNSのフォロワーは何百人と減ったが、私を本当に理解してくれていた人達だけが残った。私もその時深く傷付いたと共に「こいつらがいてくれれば良いか」とフォロワー数にこだわることが無くなっていった。

カットワン あなたは誰 あなたは誰
カットトゥー わたしを見て わたしを見て

この「あなた」とは見えないところから匿名で攻撃してきたり、知ったふうな事を書き込む誰かを指しているのか、はたまた民衆の描いた虚像の自分を見て「誰だよコイツ」と思っているということなのか。

本当の「わたしを見て」ほしいのか、それとも虚像の「わたしを見て」いてほしいのか。

2012年から細々とインターネットで活動してきた私だが、この全ての意味を私個人的には感じた。

SNS時代。もはや誰もが色濃い虚像を持つ。あなたはどう考えるだろうか。

日本中に泳ぐスイミーの心を救った『がらくた』

続いては映画『ラストマイル』の主題歌となった当楽曲について。

筆者はまだ映画はあえて観ていない。いつか絶対に観るけど。

映画を観る前にしっかりと聴き込んで、曲単体での感想をまずは抱きたいと考えた。
その後映画を観た上でまた新たなイメージが付与されるのが楽しみなのだ。

「壊れていてもかまいません」

廃品回収者のその無機質で包容感のある声がどこかから聴こえてくる楽曲であり、彼の過去のツイートからもその言葉を印象的に覚えていた事は伺える。

私という魚は幼い頃からずっと、水槽の水に馴染めないで苦しく呼吸をしている感覚を持ち続けていた。

生きていく中でいろいろな水槽に引っ越すのだけれども、どうにも孤独感が晴れず、自分は他人と馴染むのが本当に不得手なのだと痛感していく。

「人たらし」と呼ばれた豊臣秀吉のことを尊敬しているが、「私もこうなりたいが、とても真似できた試しがないな」と思うばかりだ。

こういう多数に混ざれない人間を「マイノリティ」だと呼ぶのだと大人になってから知った。

集団の中にいてもどうしたって浮いてしまう。
レオ・レオニの絵本『スイミー』は集団で泳ぐことで大きな魚になり、広い世界を見ることが出来るようになるという話なのだが、私はスイミーがどこまでいっても馴染めない、浮いた存在だというイメージの方が強かった。
結局のところ悪目立ちしてしまうし、周りの魚たちが実際のところどう思っているのか分からない。
集団の中にいるからこそ浮き彫りになる孤独を抱いた。

そんな私の元に届いた『がらくた』はひどく胸を打った。

30人いれば一人はいるマイノリティ
いつもあなたがその一人
僕で二人

この「僕で二人」に救われた人がどれだけいるのだろうか。私もそうやって手を差し伸べる人間であり続けたいと心から誓えた。

全然余談だが、誰かがXで「SAN値ロストした相方に寄り添い続ける探索者の歌にしか見えない」と言っていたがサビなんてまさに「それな」すぎて唸った。クトゥルフ神話TRPGの話である。わからない人ごめんね。

MVもなんだか賛否両論あるらしいが、

嫌いだ全部 嫌いだ

のシーンで「好き」の溢れた、恋人同士が愛し合うカットが流れ込んでくるところで私は泣いてしまった。大好きだ。毎日観ている。

「俗っぽい」だとか「さまざまに解釈できる歌詞なのにそれを限定するような内容」だとか言われているらしいが、そういう指摘こそがひとつのマイノリティを否定するような冷たい批判だなぁと私は悲しく思っている。

性愛とその先の死に向き合った『YELLOW GHOST』

米津氏曰く、愛の先には必ず死が待っていて、「失いたくない」という思いから恐れにつながる。
禁欲的な性愛というのは死を見つめることをよりブーストさせ、その行為が許されざる行為ならよりそれを加速させる。
当人が壊れているかどうかより「お前は壊れている」と扱われている状況の話で、このアルバムを作るにあたって避けては通れないテーマだった、などと語っている。

私自身、性愛というテーマには非常に興味があり、「性行為の中でも相手を観察したり、性欲とは別に好奇心や興味を向けている印象がある」というような事を言われたことがある。

そんな私が読み解く『YELLOW GHOST』は、単純な「性欲」ではなく、禁断の愛の中で最期の時まで一緒にいたいと思えるほどの恋をした二人の話のように感じた。

死体みたいに重ねた僕らの体
最後くらい笑ったままさよなら

でも結局死体になるまで一緒にいることはできず、「死体みたい」なところで関係は留まり、さよならをする。

そんな「愛の先には死が待っている」という彼の価値観はおそらく既に『アイネクライネ』の頃には抱いていたのだと思う。


今痛いくらい幸せな思い出が
いつか来るお別れを育てて歩く

つくづくこんな思想を持つ彼がおそろしく、私淑するばかりだ。

ちなみにタイトルにあるイエローゴーストとはサボテンのような見た目の植物で、ユーフォルビアの一種に存在する。
ユーフォルビアは基本的に地味で目立たない種類が多く、花言葉は「地味」「控えめ」「明るく照らして」である。

茎を切ると白い液体(乳液)が出てくるそうで、何かの隠喩を感じてしまうのは私だけだろうか。

サボテンのようでいてサボテンではない。
抱き合うと棘が刺さってしまう。

そんなところがこの楽曲にはピッタリな植物だと思うが、もちろんそのまま「黄色い幽霊」などのような意味合いかもしれない。

このタイトルについて、もう少し紐解いてみよう。

Yellowには「嫉妬深い」という意味や「扇情的」という意味もある。扇情とは情欲を煽るということだ。もう少し噛み砕いて言えば「エッチな気分にさせる」という話。この作品のテーマにも合う。

Ghostには「面影」や「わずかな可能性」といった意味もある。

皆さんはこのタイトルをどう捉えるだろうか。

AIと人間の刹那を切り取った『POST HUMAN』

このアルバムの「がらくた盤」にはロボットのおもちゃのようなものがついてくる。このロボットのイメージソングを作ろうというのが始まりの楽曲だそう。

米津氏は同時に今の世で常に話題とされているAIについて「可愛さと奇妙さの同居した感じが今のAIにはあるが、いずれ技術が発展していくとAIが作るものが本当に人の作ったものと差異がなくなっていくかもしれない。だから今この状況、この感覚を曲に残しておいた方がいいのかなと思った」といったようなことを語っている。

私は正直この曲はそんなに好きではない。
でも当の作曲者本人も「こんな人に好まれなさそうな曲を作って良いんだろうか。まあいいか」的な事を発言しており、広く愛される曲ではない自覚があるようだ。

しかし私がこの楽曲に抱く感情こそが、まさに生成AIに抱く感情に近い。

気持ちよくスパッとコミュニケーションが取れない感じや、身近なようでいてディストピア的な雰囲気であったり、それこそ可愛げと恐怖の同居したような楽曲で、彼の表現したいものが全て伝わってくるからこそ私はこの楽曲が気持ちよく聴けないのだと気付いた時、ゾクゾクした。

この曲はこんな歌詞で始まり、同じ歌詞で終わる。

6月1日 今日も返信なし
皿に置いたフリーズドライ 依然変化はなし
香る洗剤 正午告げるサイレン
片付けられない 硝子の海

始まりも終わりも6月1日で、全く同じ事を繰り返すのだ。
これは同じ6月1日なのだろうか。
それとも、何年も後の6月1日なのだろうか。

洗剤を香っているのは人間の語り部なのだろうか。
それとも、香りすら感知できるようになったAIなのだろうか。

失うことを受け入れて前に進む表題曲『LOST CORNER』

ノーフォークの空 何気に買って失くしたギター
今は誰かの元で弾かれてるかな
そこが居場所だったんだよな

旅行先のノーフォークで買ったギターをその旅行中に失くしてしまった米津氏の実話が元となるこの歌詞。

カズオ・イシグロ氏の著書『わたしを離さないで』において「ノーフォークはイギリスのロストコーナー(忘れられた地)です」と学校の先生が語る。
それを聞いた生徒たちは「ロストコーナー(遺失物保管所)ならイギリス中の忘れ物がトラックで運ばれてくるのか」と解釈、想像して……といったエピソードがある。

ギターをノーフォークで失くした米津氏は「うわ、ロストコーナーだ!」とむしろ興奮し、失くした事を必然のように感じ、全く嫌な気がしなかったと述べた。

彼はX(当時のTwitter)で「何かを手に入れる為には何かを捨てなきゃいけない。昔のひとが言った「死守せよ、だが軽やかに手放せ」という言葉に共感する」と黒澤世莉氏の言葉を引用したが、「生きていくということは同時に何かを失くしていくことだ」という彼の考え方が非常に色濃く表現された楽曲になっていると感じる。

私はこの楽曲を聴いて思い出したものがある。
それは映画『トイストーリー』シリーズだ。

『トイストーリー』は現在4までシリーズが続いているが、一貫して「子供はおもちゃを失くす」「子供はおもちゃをいつか手放す」という事を念頭に置いて描かれている。

『トイストーリー』はおもちゃ達が自分たちの居場所を死守しようとする話である。

『トイストーリー2』はそれぞれの居場所を死守しようと対立する話。

『トイストーリー3』は居場所を軽やかに手放そうとした者たちと死守しようとした者たちの対立する話。

『トイストーリー4』は居場所を死守しようとしてきたおもちゃたちがその居場所を自ら手放すことを選び、新たな人生へ進もうとする話だ。

『トイストーリー4』は日本国内においてファンからの非難がとても多い作品なのだが、『トイストーリー』シリーズを何百回と視聴した私個人的にはとても好きで。『LOST CORNER』という音楽と歌詞は「4も好きで良いんだよ」と肯定してくれたような気持ちにもさせてくれた。

また、スイミーの話を『がらくた』の感想で語った時には完全に忘れていたのだが、この『LOST CORNER』の曲中にはこんな歌詞が出てくる。

続いていく 探り探り走っていく
潮溜まりに残って踊る二匹のスイミー

というのも、この曲を知らない友人からつい最近「自分は子供の頃『スイミー』を読んで、自分と重ねて泣いてしまった」という話をされたことに共感してあの感想を書いていただけだったので、改めてこの『LOST CORNER』の歌詞を見るまで失念していた。

私の愛するその友人にも、この楽曲を聴いてもらいたいものだ。きっと私と友人はこの二匹のスイミーに違いないのだから。

ご承知の通りだと思うが本来スイミーという魚は一匹しかいない。ここで『がらくた』の歌詞「僕で二人」に繋がってくるのだ。震えた。

改めて、このアルバムの新曲たちは一つの舞台の演目の中で踊る共演者たちなのだなと理解させられた。

フィナーレを彩るオープニング『おはよう』

さて、そんな舞台のエンディングに流れるのは『おはよう』だ。

米津氏のツアー『空想』のオープニングとエンディングに流れたSEを元に作られたインストゥルメンタルで、「ここでこのアルバムの物語は終わりますよ」と語りかけてくる。

しかしながらタイトルは『おはよう』であり、実際その曲調はオープニング的な雰囲気を強く感じた。
それなのに「ああ、終わるんだな」と思えると同時に「でもまだ未来に続いていくんだな」という気持ちを抱かせてくれる。

タイトルを「おやすみ」ではなく「おはよう」とはじまりの挨拶で締めくくるところに、彼が「おはよう、たくさん手に入れて少し失くした昨日だったけれど、これから君のそんな日常がまた続いていくよ」と優しいパスを投げてくれたような気がした。

おわりに

ここまでお付き合いいただきありがとう。
当ブログでは米津玄師氏について語ることも少なくない。またこのがらくた置き場を漁りに来てくれると幸いだ。

また、彼の楽曲から着想を得た短い小説を書いたりなどもしている。興味があればご一読いただきたい。

あなたが彼の楽曲を愛し続けていれば、きっと未来のどこかで出会える日が来るでしょう。それでは、さよーならまたいつか!

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