短編小説『自戒予告』
僕はそれが自分の電話の着信音だと気が付くまでに6秒はかかった。
「誰かと思えば作家先生かい」
「幼馴染に先生はよしたまえよ木戸くん」
谷村のやつが電話をよこすなんて、未曾有の出来事を想像せずにはいられなかった。コイツはこんな風に気安い連絡をする男ではない。
「金なら貸さんぞ」
「要らぬ。君より稼ぎは良い自負がある」
「いけすかん」
「そんな益、無益の話ではない。もっと言えば話などないのだ」
気味の悪いヤツだ。「用が無いなら切るぞ」と電話から耳を離しかけたところで谷村は慌てず制止する。
「友人と語らおうというのに理由がいるかね」
「何事かの勧誘ならご遠慮願う」
「馬鹿馬鹿しい」
谷村は続ける。
「勧誘なら見物がてら乗ってみた方が楽しいというのに」
「そっちかよ」
「何がだ」
僕は答えずに溜息で返した。
「稼ぎの良い作家先生がぼんくらに聞きたい話でもあるのかい。それとも人生謳歌の秘訣でも啓発してくれるのかな」
「私が教示いただきたいくらいだよ。カーテンも閉め切った不健康極まりない音のない部屋で、ここ3日も何も生み出さず浪費を繰り返している。インスタント食品をガソリンにエンジンをかけっぱなしで、クーラーを動かすだけの走らない軽自動車が今の私の姿さ」
「スランプというやつか」
「充電期間とも言う」
「だがその充電に嫌気が刺したから、こうやってあちこちに電話を架けてまわっているのだろう」
「君だけさ、電話をしたのは」
はて、と僕は首を傾げた。「なぜ僕なんだ」頭の上のはてなを掴んで谷村のやつに半ば苛立つように投げつけた。「僕が一番暇そうだからか?」と。
「君ならなんだかんだと、こうして耳を傾けてくれそうだと思ったからだよ」
「2年や3年も話していないのにか」
「4年と9か月は経っている。まだ君の声が酒焼けていない頃だ。私は近頃かぜをひいているのさ。看病してくれる人もいない」
「心細くでもなったか」
「逆だ。胸がいっぱいで苦しくて仕方がないのだよ。遠く遠くに住む美しい女性の飾られた瞳を想うと、吸い込まれたまま抜け出せなくなってしまう。そうして気が付けば駐車場の隅で動けずにいるのさ」
「かぜだなんてややこしい言い方をするな。要は恋だろう」
「恋とはかぜに似ているだろう」
「その議論をする気は僕にはない。僕には理解できない感性だ。悪いが僕はお前の熱冷ましにはなれないぞ」
「構わない。君と話している間は冷却ファンが回っている心地だ。何かに打ち込んでいても気を抜けば彼女の幻影を追ってしまう。木戸くんのようなクールでドライな男と会話をしていると気が紛れてくれるのさ」
「僕に何か得があるのかそれは」
「サインを書いてやろう」
「いらん」
「玄関に飾って自慢が出来るぞ」
「お前の名前を毎朝見る僕の身にもなってくれ」
「そんなに嫌われていたか私は」
僕は無視した。「それで」僕の声はさぞかし眉間にしわを寄せた様子が伝わるものだっただろう。「僕と恋バナでもしたいのか」
「いや、てんで意味のない、くだらない話がしたい。学生時代のあの、校舎の側にあった雑な倉庫の前で語らったような無益な話を」
「よく覚えているもんだ」
「当然。例えば「未来から伝わってきた学問」がもし授業の中に紛れているとすれば、どの教科だと思うかという問いに、君が「道徳」と答えたのは傑作だった」
「谷村、大笑いしたかと思えば悔しそうに顔を歪ませていたのを思い出したよ」
「私はこの頃よくうたた寝をした時に夢を見るのだが、もし人間が「夢を見ない生き物」だとしたらどんな世界になると思う」
「なんだそれ。そうだな……」
僕は久々に谷村と語らった。3時間が過ぎた頃、僕たちは空腹に耐えかねて電話を切ることにした。
「やはり木戸くんはユニークだな。有意義だった。「何もしていない」という自責の念が多少は晴れたよ」
「そうかい」
「何もしなくても印税が入る生活に驕りがあったように思う。よければまた私の自戒に付き合ってくれ」
「たまになら」
終話のツーツーという音だけが僕の部屋に残る。僕はしばらくの間、画面に残る谷村の名前の文字を指でなぞっていた。