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日台をむすぶ歴史秘話、張良澤先生の証言

 私の早稲田大学時代の恩師・西川潤先生は、「飢えの構造」などベストセラーの本を出し、近年でも「共生主義宣言」「グローバル化を超えて―脱成長期日本の選択」「新・世界経済入門」など名著を出され、南北問題や格差問題などを手がけ、現代の諸問題に多くの提言をなされた新進気鋭の国際経済学者でした。

西川潤先生

 その西川潤先生のお父様の西川満先生は、戦前台湾で文芸誌「文芸台湾」を創刊し、台湾の川端康成といわれる作家・葉石濤を育てるなど日本語文学の振興を図り、また佐藤春雄の「女誡扇綺譚(じょかいせんきたん)」に並ぶ名作「赤嵌記(せつかんき)」「台湾縦貫鉄道」「ちょぷらん島漂流記」「西川満全詩集」など書かれた詩人・作家でしたが、戦後、台湾を支配した国民党政府から長らく批判され、ほとんど忘れさられた作家でした。

西川満先生(台湾文学資料館)
西川満先生のお弟子さんだった葉石濤記念館(台南)
西川満先生のお弟子さんだった葉石濤氏(葉石濤記念館・台南)


 その西川満先生の台湾における再評価に大きく貢献したのが、国民党の専制時代から論陣を張ってきた張良澤先生であります。その結果、民主化の進んだ2000年代には国立中央図書館台湾分館や国立台湾文学館で「西川満大展」が開催されるにいたるのです。

台湾文学資料館
台湾文学資料館

 その張良澤先生が、2024年3月2日に来日され、「張良澤先生を囲む会」が開催されました。出席者は、張良澤先生、息子さんの張道南さん、付き添いの黄さん、西川満先生の展覧会に尽力された池田さん、西川ゼミのサイドから私を含めて7名が参加し総勢11名でした。

 そこで日台をむすぶ歴史秘話ともいうべきものを張良澤先生がお話してくれました。私はそれらのお話が張良澤先生の歴史証言としてとても貴重なもので、ここに記しておかなければ歴史の闇のなかに消えてしまうと思い、ここに残したいと思います。

 ここで張良澤先生を簡単にご紹介したいと思いますが、張良澤先生は下記の略歴にありますように、台湾の大学で中国文学を研究、その後日本に留学、筑波大学、共立女子大学の教授を歴任された方です。

 繰り返しになりますが、西川潤先生のお父様の西川満先生(下記に略歴)は、戦前の台湾における日本語文学の発展に尽くされた方ですが、日本の敗戦後、西川満先生は、台湾を支配した国民党政府のもとで日本帝国主義の文化的指導者として長らく批判されてきたのです。先に触れましたように、それを再評価に導いた最大の功労者が張良澤先生なのです。

 ところで、私が張良澤先生と知り合ったのは、2018年7月に会津若松市の福島県立博物館で開催された「華麗なる島 会津出身の文化人、西川満が愛した台湾、繋いだ日本」展およびその関連イベントとして7月22日に開催された「台湾と会津 西川満から現在まで」フォーラムにおいて、西川潤先生および赤坂憲雄先生、張良澤先生などがパネリストとして登壇し、そのときに張良澤先生と名刺交換したのが始まりです。

「台湾と会津 西川満から現在まで」
西川潤先生と張良澤先生

 なお余談ではありますが、この展覧会は国立台湾文学館と福島県立博物館、斎藤清美術館が共同開催したものですが、台湾側が国立であるのに日本側が県立の博物館だけではバランスが取れないということで町立の斎藤清美術館を加えたという経緯があったそうです。また国立台湾文学館が同展のために300万円出したそうですが、日本側は出せなかったので、台湾側がなぜ台湾側だけお金を出すのだという話があったときに、張良澤先生は「台湾文学は血統主義ではなく、日本人であっても台湾を愛し、また今でも台湾人に愛されている西川満先生だからいいでしょう」と説得してくれたそうであります。そんなこともあって西川潤先生と赤坂憲雄福島県立博物館館長がポケットマネーを出されたそうです。

 話は少し逸れましたが、その後、私は西川潤先生から台湾の真理大学の台湾文学資料館に西川満文庫があると聞いていたので、2019年4月24日に台南を訪問し、真理大学で張良澤先生と面談、西川満先生の資料が多数収蔵されている台湾文学資料館を拝観させていただきました。 

台湾文学資料館(台南)
台湾文学資料館(台南)
台湾文学資料館(台南)
台湾文学資料館(台南)
台湾文学資料館(台南)
台湾文学資料館(台南)と西川潤先生
台湾文学資料館(台南)
台湾文学資料館(台南)にて
台湾文学資料館(台南)にて

 すこし前置きが長くなりましたが、今年85歳になられる張良澤先生は大変お元気で冗談も飛ばされ「張良澤先生を囲む会」は大いに盛り上がりました。そのなかで印象深かったお話をいくつかご紹介したいと思います。

張良澤先生
張良澤先生

 一つは、1979年に張良澤先生が、阿佐ヶ谷の西川満先生のご自宅にはじめて訪問されたときのお話です。張良澤先生が、はじめてお会いした西川満先生は元気がなく、意気が上がらない様子で台湾の話をしてもあまり相手にしてくれなかったとそうです。後で分かったことですが、そのころ西川満先生は主宰されていた「天后会」のブームが去って下火になり、会員が減少していた時期だったそうです。そこで張良澤先生が鞄からこの本は世界に1つしかない本ですと言いながら、一冊の本を取り出すと、西川満先生は跳びあがるほど驚いて、「この本、まだ、あるの!」といって、「澄子、早く、降りて来なさい!」と二階にいる奥さんを呼んだそうです。その本は西川満先生が早稲田大学仏文科を卒業する際に書いた卒業論文で、新婚早々の奥さんが綺麗に清書したものであり、一冊は大学に納め、もう一冊を台湾に持ち帰ったものの敗戦の混乱で散逸したものだそうです。

 その卒業論文は、張良澤先生が1970年ころ台湾の古本屋のダンボールに入っているのを見つけて買ったそうです。ダンボールが2つあり、当時月給が3000元位の時代にダンボール1個が3万元で、お金のなかった張良澤先生はあっちこっちに借金をして、友人劉峰松さんと二人で3万元づつ出し合って2つのダンボール買ったそうであります。

 もうひとつは台湾文学資料館のお話です。1997年のある日、共立女子大学にいた張良澤先生のところに台湾の淡水工商管理学院の学長から電話があり会うことになったそうです。その学長の話では、その大学に台湾文学科をつくりたいが、国民党政府は、台湾文学は中国文学の一部だということで、台湾文学というものは認めておらず(中国大陸で国共内戦に敗れて台湾に逃げてきたとはいえ、国民党政府は自分たちが中国の代表だということで)台湾文学科の設立は容易ではないだろうが、もし張良澤先生が帰国して、台湾文学科の設立の申請をしてくれれば、国民党政府も認めてくれるのではないか、もし認めてくれれば台湾文学科の責任はすべて張良澤先生に任せるというのだそうです。そこで張良澤先生が休日に台湾に帰国し、国民党政府の文部省に申請したところ、国民党政府も李登輝総統の時代になっていたこともあり認可されたそうであります。こうして1997年に世界で初めて台湾文学科が成立したと同時に、台湾文学資料館も設置されました。

 そこで大学のなかに台湾文学資料館をつくるなら、徹底してやろうということになり、日本に台湾文学の資料が沢山あるので、それを持って返れば台湾文学資料館が世界で1番になれるということで、西川満先生のところを訪れて話をしたそうです。西川満先生は、「自分の文献が台湾に帰り、その大学が台北の淡水にあるのもいい、台湾にいたときには休日によく淡水に行った」とおっしゃったそうです。

 ただ西川満先生の一生の財産である文献を無料でもらうわけにはいかなかいので、寄贈という形式をとったものの、最終的には西川満先生に毎月何十万円を支払ったそうです。

 台湾文学科及び台湾文学資料館ができたことで、その単科大学(淡水工商管理学院)は一躍世界中で有名になり、真理大学という名称に変えて総合大学になったそうです。新聞にも報道されたので台湾人作家も文献を寄贈してくれて蔵書は10万冊にも及んだといいます。2000年真理大学は台湾文学資料館を台北の淡水キャンパスから台南の麻豆分校に移転したそうです。

 台南の真理大学に台湾文学資料館ができたことにより国際的にも活動できるようになり、スムーズな運営もできたそうですが、2020年学長が交代して三代目の若い学長になると、少子化で学生が少なくなり、経営難になり、若い学長は張良澤先生に黙って、突然台湾文学資料館を閉鎖したといいます。張良澤先生は怒って、よしゃ、大学が単独で台湾文学資料館を経営するのが無理ならば、先端技術センターなど工業団地があちこちにできているが、それだけでは文化の匂いが一つもしないので、張良澤先生は「台湾文学国立園区」の設置を提案しました。その文学公園のなかに西川文庫、張文環文庫、葉石濤文庫など作家ごとの文庫をつくろうという構想です。台南市長は賛同してくれたものの、中央政府は現在のところ何の意思表示もしていないといいます。

 真理大学の台湾文学資料館が閉鎖されたことにより、10万冊におよぶ蔵書が湿気などで痛んでしまわないかと、とても心配で頭を痛めているとのことです。この件で日本でなにか支援できることがありますかとお尋ねすると、日本のメディアがこうした動きがあることを報道してほしいとおっしゃっておられました。

 また、TSMCの半導体工場が熊本市に建設され、いまや日本が台湾に助けてもらっている現状をどう思われますかという私の質問に対して、張良澤先生は、嬉しいとは思わない、心の問題を重視しないで科学技術が発展していくだけでは人類は破滅していくだろう。現在、世界の火薬庫といわれるなかで、ウクライナ、ガザで大火災が発生しているが、もし台湾有事が起これば、日本も巻き込まれるのは避けられないだろう、沖縄や尖閣もアッという間に燃え上がり、地球の半分が燃え上がるような悲惨なことになるだろうと、悲観的だとおっしゃるのです。

 最後に、西川満先生をモデルにした私の小説「華麗島、帝国の詩人たち」の拙稿を読んでくださいましたかとお尋ねすると、「読みました。真実に近いです。面白い」という有難いお言葉をいただきました。

 なお張良澤先生は2024年新春特大号「サライ」別冊で「台南はすべての時代の目撃者です」というインタビュー記事が掲載されています。

 

・西川満先生 明治41年(1908)会津若松生まれ 三歳で台湾に渡り

早稲田仏文科卒業後 台湾日日新報社 文芸記者 「文芸台湾」創刊

戦前、日本語文学の発展に寄与した詩人・作家 

日本の敗戦後 日本帝国主義の文化的指導者として批判された

台湾の民主化とともに再評価 その最大の貢献者が張良澤先生

 

・張良澤先生 1939年生 台南師範学校 成功大学中国文学科を経て

1966年来日 関西大学大学院留学 帰国後成功大学講師

1970年代「台湾郷土文学叢書」出版

1978年筑波大学外国人教師として赴任

1990年共立女子大学国際文化学部教授就任

2005年 帰国 真理大学文学部教授、真理大学台湾文学資料学館館長

      現在 「台湾文学国家園区」協進会名誉理事長

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錦光山和雄
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