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生命保険営業の男が極道の組事務所に行く話。
都内某所。平和な生活を望む都民からすれば傍迷惑な話なのだが、界隈では有名な極道の組どうしが大きな争いを起こしかけていた。というのも、片方の組で現組長が病気を患い、本来拮抗していたはずのパワーバランスが崩れ始めているのが原因だ。しかしその窮地を立て直すべく、組の若頭が立ち上がった。彼は見た目には普通のサラリーマンのような平々凡々な男だが、よく見るとその目つきは鋭く所々体に切り傷もあり、肩には弾痕さえある。そして、殺気のような何かも纏っている。普通に考えれば近づきたくもないような男でだ。さらに戦のために研ぎ澄まされたような体を持ちつつも、頭もキレる、そういう無駄にスペックが高い人物なのだ。活動資金を集め、争いの火種は潰し、果ては新入りと偽って潜入して来るスパイを見極める等も行っていた。
夜の街が活発になる頃。彼はキャバクラにいた。別に好きで来ている訳では無い。というのも、ショバ代と引き換えにボディーガード代わりとして提携している事が大まかな理由でしかないのだ。
「今ここで落とし前をつけるのと、二度とこの店で暴れないって約束すんのと、どっちがいい。」
彼にそうすごまれた若い男は、素直に後者を選択した。
火種を潰す。地道だが重要な事である。もし仮にこの若い男が敵対組の下っ端であれば彼のここでの発言や行動が、抗争に持ち込まれる原因になってしまう。彼の判断はいつも
おおよそ正しかった。事件を未然に防ぐ。先をしっかりと考えるタイプの人間であった。そして自分の手柄を鼻に掛毛ない。
「マァ、お互い様って事よ。」
支配人にそう一言話して、彼らの組事務所に戻って行った。
彼らが組事務所に戻って行ったその少し前。紺色のスーツを着た男がその近辺を車で走っていた。この男は、生命保険の営業マンで、営業成績は中の下。飛び込み営業を数多く仕掛けるがその成約率は低く、数を撃ってなんとか自らの実績を伸ばしていた。いや、誤魔化していたという表現の方が正しいかもしれない。男には明確に『良くない点』があった。というのも男は、結論を最初に話さないという営業マンとして致命的な欠陥を抱えていたのだ。海外ドラマに出てくる凄腕ビジネスマンに憧れたか何なのかわからないが、名スピーチのようななにかを最初にグダグダと喋り、そして自己紹介を忘れる。さらにそんなマイペースな性格という事で、若干空気も読めない。そんな感じの人間なのだ。
「明日はあの辺りを回ってみるか。」
そう呟いた。
翌日。
若頭は事務所奥の個室で、パソコンの画面と組の収支表を交互に睨んでいた。これを側から見ると何か重大な問題に苛立っているようにも見えたが、実は単にパソコンが上手く操作できないので困っているだけである。しかしそれにしても、こういう時の若頭はいつも目つきが鋭すぎて、声を掛け辛くもあった。部下達は彼の事を尊敬してはいるものの、口数が少ない若頭が何を考えてるのかあまり理解していないのが、彼らの日常なのである。
事務所ビルの廊下では、先日の生命保険営業の男が一人佇んでいた。
「この瞬間が一番緊張するんだよな。」
この事務所について全く下調べをしていなかった男は、次の飛び込み先をここに決めていた。緊張していると呟いてはいるもののそれもどこか他人事で、こちらとしては何もかもを流れに任せ無計画に物事を進めようにも見えるのだが。男は扉を開き一番入り口の近くにいた若い衆に、
「この事務所で一番偉い人ってどこにいますか?」
こう尋ねた。若い衆はあまり深く考えずに若頭の部屋に案内してしまった。
「失礼します。若に、客人です。」
男が若頭に浅く会釈をし、若い衆が部屋を出る。
部屋の扉が閉まる。
男と若頭は、二人きりとなった。
いや。
この『口数の少ない若頭』と『中の下の営業マン』が、二人きりに、なってしまった。
若頭は怪訝な顔をしていた。最近の客人といえば、他の組からの刺客のような人間ばかり。『ウチの組の傘下に入るか、それとも壊滅させられるか選べ』そんな交渉寄りの脅迫がほとんどだった。昨日も来ていた。そんな昨日の今日で、生命保険営業の男は言った。
「貴方は、命とお金、どっちが大事ですか?」
若頭は即座にこの発言の意味を理解した。
—なるほど、金さえ払えば命を取ることはしないでやる、そういう事か。—
最悪の誤解が生まれた瞬間である。そういう意味ではない。
生命保険営業の男は、さらに誤解を重ねる。
「私もこういう仕事をしていると、人の死っていうのは直面してしまうし真剣に考えるようになってしまうんです。自分が死んだ後困る人がいるのではないか、そう思うと夜も眠れません。」
—なるほど、狙いは俺の命だけか。マァ確かに、俺が死ねば若い衆全員が困るってのは、間違いないだろうからな。—
その考えが間違えである。若頭は修正不可能なところまで間違えていた。
「自分がいつ死ぬかも分からない。これは誰だってそうです。突然の怪我や病気で働けなくなる事も、あるいは命を落とす事もある。交通事故に遭うなんかもそうですが、夜道で暴漢に襲われてそのまま、なんてのも。こんな事、海外では珍しく無いですよ。」
生命保険営業の男はこの話をした上で、何故か笑みを浮かべた。本人としては営業マンとして素敵な笑みを浮かべているのかもしれないが、こちらからだと不敵な笑みにしか見えない。それにまず、営業スマイルの使い所では無い。
—なるほど、いつでも殺す準備はできてる訳だ。—
そんな準備はしていない。この男にあるのは保険プランの資料の準備ぐらいだ。
若頭は、少し黙り込んだ。警戒しているのだ、この男を。見たところサラシも巻いていない、ドスも隠していない、それに俺から簡単に目を切る。いくら何でも警戒心が薄すぎる、そう感じ取っていた。
だがしかし、当たり前だ。サラリーマンなんだから。腹を切られて内臓が飛び出る心配をしながら出社するサラリーマンはいないし、カバンに一応ドスを入れているサラリーマンもいないし、隙を見て殺してくるサラリーマンも周りにいない。
そんな当たり前にも気がつかない若頭は簡単な話、これを罠や挑発の類だと認識し、男に言った。
「悪いが、俺はもう何度も同じ話を断っているんだ。」
若頭は必要もなく強かに応えた。生命保険営業の男も誤解を開始する。
—なるほど、他の会社の人間が来ていたって事か。—
来ていない。来たのは『他の組の人間』である。
「俺はこの世界で命をかけて生きている。」
—なるほど、余程この仕事に真剣なのか。—
この場合の『命をかける』は比喩表現ではない。
「それに、オヤジに託されたこの場所を守る必要がある。俺ァ、今更そんな話には乗らないさ。」
—なるほど、この会社は家族経営か。—
言うまでもないが、若頭のオヤジは親父ではない。
それにしても生命保険営業の男は、この保険をかけるという概念からかけ離れた男に如何に営業をかけるか躍起になっていた。というのもこの男、現在職場で危うい状況にいるのである。中の下をキープしていた営業成績もここ数ヶ月は、下。加えて上席への空気の読めない発言に、さらには顧客からのクレーム。となると給与の減給あるいはボーナス減額、はたまた、解雇。これらが男には間違いなく迫っていた。さすがに生活の危機を感じていた男は、次の飛び込み先はなんとしても獲得せねばと、そう考えていた。
「貴方は今、何歳ですか?」
生命保険営業の男は尋ねた。
「三一。」
—となると最適のプラン、そして死亡した時に受け取れる金額は・・・、—
「二千万でどうでしょう。」
生命保険営業の男は言った、『二千万円受け取れるプランでどうでしょう』と。
若頭は聞いた、『二千万円払うなら命は取らないプランでどうでしょう』と。
生命保険営業の男は続ける。
「もし貴方が明日死ぬとしたら、きっと入っておけば良かったと思うでしょうね。」
生命保険営業の男は言った、『保険に入っておけば良かったと思うだろう。』と。
若頭は聞いた、『傘下に入っておけば良かったと思うだろう。』と。
さすがに若頭は苛立っていた。何度断ってもこの手の脅しを仕掛けてくる。しつこさもさる事ながら、一番はやはりこの太々しさ。命のやりとりが発生する交渉事というのに簡単に金と命の重さを推し量るその軽率ぶり。とても極道の人間とは思えない。しかし当然だ。サラリーマンなんだから。そしてさらに彼は推測する。もしかすると、こいつらの狙いは複雑な話し合いによる和平的な交渉ではない。もっと単純に、俺がこの男に手を出し、仇討という名目で実力行使が始まるのでは。いやこの男に手を出し、名目を手にするまでこの交渉は続くのでは。
若頭は生命保険営業の男に尋ねた。
「お前、素直に帰るって選択肢はねーのか。」
冷静な口調ではあるものの、怒りの沸点がすぐそこまで来ているのが自分でもわかっていた。
「私は帰るわけにはいきません。貴方が首を縦に振るまでは。」
生命保険営業の男はまたしてもいらない不敵な笑みを浮かべた。いやもはや、不敵な笑みではなく不適切な笑みである。
「なるほど、それがお前の仕事って訳だ。」
若頭は最後の質問として尋ねた。
「はい。私たちはただ単に、貴方たちの事を思って、言っているだけですよ。」
この一言に若頭は、『怒る』と決めた。
「ゴチャゴチャとウルセェ野郎だなァ!」
そう言って若頭は生命保険営業の男のワイシャツの襟を握りつぶすかのように掴んだ。布の破れた音と共に顔面を引き寄せる。
「帰ったら上のモンに伝えとけ。お前らの話に乗るつもりはないってな。」
若頭が手を離すと、生命保険営業の男はその場にへたりこんだ。そしてカバンを持ってそのまま部屋を出て行った。
若頭もその後に部屋を出て、声を張り上げた。
「お前らァ!今から準備を始めろ。討ち入りだァ・・・。」
生命保険営業の男は、泣きながら車に乗り込んだ。
「また客を怒らせてしまった・・・。」
結果としては、若頭の組は抗争に破れ、敵傘下に取り込まれた形にはなったが事実上解散である。
生命保険営業の男は、また客を怒らせたという事で、もはや酌量の余地すらもなく会社をクビになった。