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紙コップ
日本人とは、本当に不思議な民族だ。こんなにも奥ゆかしく、謙虚で、愚かな生き物はいないのではないだろうか。特に、自己主張の少なさ。言いたい事があるならはっきり言えばいい。
例えば、銀行のATM。小さな銀行で、機械は4台ほどしかない。窓口の営業時間は終わり案内人もいない。しかし翌日から連休に入ろうとしており手数料がかからないのは今日の18時まで。5人ほど並んでいる。4台あって、4台とももたついて操作している。5人の列の先頭は、若い男。携帯電話をずっと弄り回して、イヤホンもしている。漫画を読んでいるのかニュースを見ているのかゲームをしているのか。ほんの1、2分の待ち時間で携帯電話に集中してしまった。ここでATMが、やっと一台空いた。若い男の方は、まだ画面を見ている。
・・・・・何故誰も声をかけない?『空きましたよ。』この一言でいい。なぜ、その注意ができない?あるいは何故誰も抜かしてしまおうと思わない?後ろの人間に迷惑をかけているのは間違いない。であれば、その報いとして抜かされることは自然な話だと私は思うのだが。
他にも、電車だ。夜の帰りの電車。混み合っている。特に体が密着するほどではないが、次の駅で乗ってくる人は到着した瞬間に座席に座れない事を察する。そんな混み具合。そんな中に、ポツンと空いた一席。横に関取まがいの体型の男が座っているわけではない。近くに臭いの方が決して心地よいとは言えない空気を漂わせている人間がいる訳ではない。隣に荷物をおっ広げて懸命に顔に化粧している女がいる訳でもない。そこに、ポツンと空いた席。そこに、人間の代わりに座っているのが、缶コーヒーの入ったビニール袋。
・・・・・何故誰もどけない?きっとただの忘れ物だろう。どこでも、いつでも買える缶コーヒーだ。携帯電話や財布のように、駅員に届ける必要もない。ならば捨ててしまっても構わない。捨てた人間はきっとその座席を手にする。そうして、一人の人間の下肢の疲労を無にする事ができるのではないのか?それを疲れ知らずの缶コーヒーに引き渡していていいのか?それにいっその事、飲んでしまっても良いのではないだろうか。
こうした出来事を、私は頻繁に目にする。きっと腫れ物のように感じ、どこか関わった後を考え恐怖しているのだろう。かくいう私も、その若い男や缶コーヒーと同じだ。どこか放置され、どこか見過ごされ、どこか置き去りにされているかのような寂しさを常々感じていた。病に倒れ長く部屋に居た私は、きっとこの現状を近所でも知られていたはず。よく行くスーパーマーケットも、よく行く本屋も、よく行く病院も、私が彼らの日常から消えてしまったのはきっと気づいている。けど、誰も私を助けてくれる訳ではない。そういうものだ。期待しすぎだ、という声は重々わかっている。だが病気でなくとも寂しさは感じていたはずだ。そういう国なのだここは。こんなに人が居ても孤独を感じる。そういう土地なのだ。私はこの国に復讐を誓った。人々に地獄の苦しみを味合わせてやる。しかしきっと、この犯行をしたものは誰にもわかるまい。見えない人間からの、この国への復讐だ。そう思い立った私は日曜日、フードコートに向かった。
相変わらず混み合っていた。いや、混み合い始めた。食品、家具、レジャー、服飾など様々な店舗が詰め込まれたモール。そのワンフロアの一角を広く使ったフードコート。開店と同時に私はフードコートに入った。日曜のお昼時は、席に座れなくなるほど混み合っていくのだ。現在11時30分。かれこれここに2時間半いる。私は犯行の準備を完了し席を立った。フードコートを見渡せる隣の本屋。そこに移動し、立ち読みをしながら現場をじっと眺めていた。ここからでは人々の表情までは見えないが、代わりに恐怖した顔が容易に想像できる。まもなく、12時。そろそろ、効果が現れるころだ。雑誌を横目にじっと見ていると、私の狙い通りにコトが運んでいるのがわかった。人々は、立ち尽くしていた。文字通り。
私がやったことは至極単純だ。ただ、置いてきた。そっと、置き去りにしてきただけ。水の入った紙コップを。これを、いやこれらを全体の4分の1ほどの座席に置いておいた。飲みかけの水が入った紙コップがただ置いてある、それだけで皆は寄り付けなくなっていた。人々は勘違いしている、『誰かが席をとっている』と。だがそれは違う。私がただ仕込んだだけだ。それだけで、全ての人たちは恐怖し席に着けなくなった。行動は二つに分かれた。諦めてそのフードコートを離れる者、席を手にした人間が食事を終えてどくのを待つ者。いい気味だ。どちらにしろ紙コップを恐怖している。爆弾でも、毒物でもない紙コップを。いやもしかしたら爆弾や毒物と勘違いしている人もいるかもしれない。確実にこれは私の犯行の勝利である。きっと犯人が私とは誰にもわかるまい。これで、完全犯罪成立だ。
じっと、雑誌の横目からフードコート見ていると意識が遠のくのがわかった。何時間も外にいたからだ。体力もなくなり衰弱していた私は外に出るべきではなかったのだ。雑誌の文字もよく見えない。頭から血が抜けていくかのような感触が体内に走ったあと、私はゆっくりと倒れていった。
全ての感覚が薄まっていく中、私に声をかける男の声が聞こえた。