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おじさんの愚痴は宝の山

 おじさんは僕に、とても嬉しそうに説明をした。行きつけのお店が何件かあること。そこではあだ名で呼ばれていること。1号店は常連ばかりで、店員の愛想も悪いこと。2号店は魚が美味しいが、名物女将は3号店に移ってしまったこと。休みの日は家から30分、運動も兼ねて歩いて飲みに来ていること。

 この10年間で、日本の飲み二ケーションは随分変わってしまった。10年前、僕は新卒の営業マンで、銀座の専門商社で働いていた。そして今は、横浜でおじさんと歩いている。
 若者の酒離れや、プライベート重視、お酒文化の強要は良くないという意識が、なかなか社会の隅々まで行き渡っている。今時、残業終わりの21時から、若手の部下数人を連れて飲み歩き、帰りのタクシー代まで面倒見てくれる上司はいないだろう(例えそれが経費だとしても、そして経費はそんな風に使えるものではなくなった)
 だからこそ、今おじさんは嬉しそうに説明している。僕が横浜に詳しくないと言えば、飲み屋までの道中、簡単な横浜案内までしてくれる。ボウリング場の名前が変わったこと、美味しいたこ焼き屋があること、大通りから一本入ればホテル街になること。
 この10年で、おじさんと若手が飲む時は、若手から誘う、という様式美が出来上がった。おじさんから誘うと、無理強いしているような感じがするかららしい。そしてそのおじさんがもしも上司であれば、場合によりそれはハラスメントであると解釈されかねない。そのため、「若い人から誘われると嬉しいもんだよ」と誘ってくれアピールをするおじさんが急増した。ちなみにこのおじさんは、直属の上司ではない。

 僕はそれを十二分に理解した上で、今日はおじさんを誘っている。僕はとある外資系企業に勤めるサラリーマンで、それ以上でもそれ以下でもない。外資系企業というと、ハードワークだとか、高年収だとか連想されがちだが、すべてがすべてそうなわけではない。夕方6時には横浜をのらりくらりと歩いて、一杯300円のホッピーを出す立ち飲み屋に吸い込まれる外資系社員も、相当数いるものだ。そういう人は、「僕は外資系企業に勤めているんだ」なんて、あんまり言わない。六本木や丸の内のタワーにオフィスを構えていて、福利厚生にはフリードリンクがあって、ランチの時間はミーティングやトレーニングや1on1に充てて、LinkedInには英文で経歴をアップしている人は、「僕は外資系企業に勤めているんだ」と言う。だから、外資系企業はハードワーカーの巣窟だというイメージがはびこると、僕は勝手に考えている。そしてまた、その条件を満たしても、最終学歴が理系の大学院卒だったりすると、「僕は外資系企業に勤めているんだ」とは言わなくなる傾向があると、僕は勝手に考えている。

 話を戻そう。僕はおじさんが、若手から誘ってもらえると嬉しい生き物だと十二分に理解した上で、この場所にいる。ましてやおじさんの庭である横浜で、あだ名で呼ばれているほどのお店に行くのだ、おじさんは目を嬉々としてエスコートしてくれている。
 僕は、今の会社に転職してから、大体1年くらい経った。若手といっても組織の中での相対的な年齢であり、30代だ。様子見の期間はそろそろ終わりで、もう一歩、会社のことを知ったり、昔話を聞いたり、おおっぴらにはなっていない人間関係を頭に入れておきたい頃合いだと思った。そういう話は、同僚に聞いたり、上司と面談しても出てくる話ではない。アルコールが無ければ話せないというほどの内容ではないが、身近なイベントではお酒を飲むのが一番簡単ですぐに出来ることだろう。年に何度かしかない「会社の人と飲んでくるね」というカードを、僕は今夜切ろうと思った。

 妻に、「ちょろっと飲んでくね」と送る。既読。「ちょろっと、ってつけるの好きだね」と返信。(怒っているわけではない、念のため)

 ホッピーの中身を3回おかわりしたくらいから、おじさんは会社のことを話し始めた。誰がいくらぐらいもらっているかから始まって、給与体系変更の話、社長の交代の話、営業成績が出ているように見える人の話、犬猿の仲だったけど今は話ぐらいはするようになった人たちの話、エトセトラ。
 僕が今日、一番聞きたかったのは、「誰がいくらぐらいもらっているか」だ。その情報を仕入れられただけでも、十分な収穫だった。転職をすると、入社時の自分の年収は分かるが、それ以降のイメージがつきにくい。ものすごい人数のいる部署であれば、それでも何となく社歴や年齢やポジションで想像できるかもしれないが、10人くらいのチームだとそうもいかない。
 「給料、いくらもらってるんですか?」と質問して、答えてくれるおじさんはなかなかいない。
 「あのマネージャーと、その上のディレクター、いくらぐらいもらってると思いますか?」と質問すると、あらゆるおじさんは答えてくれる。
 こうして僕は「誰がいくらぐらいもらっているか」という情報を手に入れて、そこからざっくり逆算して、自分の年収がどんな風に変わっていくのか、推測することが出来た。ちなみにマネージャーとディレクターの推定年俸は、僕が元々予測していたものとほぼ一致していた。おじさんは、「あれだけ部下を抱えている人にしては、低い」と言っていたが、僕は、「そんなに忙しくないし、良い人生だな」と思った。

 ホッピーのおかわりが進み、おじさんの話にまとまりが無くなってきた。おじさんという生き物は、ホッピーを与えると、序盤は饒舌に話し始めるが、一定の段階を超えると、とりとめのない話しか出来なくなってしまう。さらにもう一段階進むと、「思ったことを言う」人になる。こうなったらそろそろお会計の頃合いだ。おじさんマネジメントの神髄だと思ってほしい。

 お会計で、「1000円でいいよ」と言うおじさんを傍目に見て、僕は「おじさんの愚痴は宝の山」という言葉を思いついた。OpenWorksの口コミにもない、どんなビジネス書にも書いていない、生きた情報がそこには詰まっているのだ。そして唐突に、noteでそれをエッセイにでもしてやろうと考えた。昔、少し文章を齧っていたことがある。ずいぶん離れてしまったけど、リハビリというか、ストレッチみたいな感じで、ものを書くのはきっと良いことだろう。 

 前の会社の同僚が、「1000円だけ出させるおじさんはダメだ、1000円出させるんだったら、全部おごったほうが、双方にとってスッキリして気持ちがいい。ご馳走様とも言いやすいしな。1000円だけ出したってなんにもならない」と言っていたことを思い出す。けれども僕は、1000円だけ出させるおじさんも、なかなか悪いもんじゃない、と思いながら帰路に就いた。

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