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ずっと昔の話-グラン・ブルー-

梅雨の合間の陽射しは攻撃的だ。
分厚い雨雲に阻まれる鬱憤を、ここぞとばかり晴らそうとする夏至の太陽が、夏だ夏だと主張する。

会社を出て、ちょうど向かいにある店は、1年半くらい前にオーナーが変わり、以前は天ぷら屋だったが今はビストロになっている。
開店当初はランチの料理の質がひどく、その評判で一時閑古鳥が鳴いていたのだが、最近はずいぶん改善して賑わっている。
私も月に何回かは足を運ぶようになった。

内装はいかにもビストロ然としていて、テーブルには赤いギンガムチェックのクロスが敷かれ、壁にはアール・デコなポスターが映えている。
カウンター席の脇の壁にはシネマ・ポストカードがいくつも貼られていて、注文した料理が届くまでの間、私はそのカードのフランス語を解読しよう試みていた。

フランス語を習ったことはない。
街中や雑誌や、映画や広告、誰かとの会話、旅先の表示、各方面の知識や記憶を動員しながら、これはゴダールの「男と女」、ヒッチコックの「めまい」、それから「Jour de Fete」は「ナントカの日」なんだろうなあなどと推測する。(後に「Jour de Fete」は意味は「祭りの日」、邦題は「のんき大将」と判明)
古い映画ばかりでなく比較的新しいものもあって、一番右は「アメリ」、その隣は「ロッキー3」、ちょうど真ん中には「グラン・ブルー」。

「グラン・ブルー」は、リュック・ベッソンがフリー・ダイバーであるジャック・マイヨールをモデルとして描いた作品だが、ポストカードには、夕暮れ時の静かな海の真ん中で、イルカと戯れる男の影。

私は、この映画が嫌いだ。
おそらく、今まで観た中で、もっとも嫌いな一本だ。
それが、とても感情的かつ個人的な理由だということは、自分で知っている。
でも、私は嫌いなのだ。

この作品中の、ジャック・マイヨールは、私にとって死神のように見える。

映画そのものの出来栄えという意味では、ある人にとっては「名作」と称えられることもあるように、一定以上のクオリティがあると思う。
地中海はどこまでも美しく、役者には自然な巧さがあり、静かながらも叙情的演出が印象的だ。
そういう意味で、いい映画なのだ。

私は、つまらない映画だとも、駄作だとも言わない。
ただ、私の嫌いな映画だ、ということ。

実在したジャック・マイヨールは、酸素ボンベをつけず、いわゆる素潜りで水深100mを越す記録を作った。
3分40秒にも及ぶ潜水となれば、彼が達しているのは、既に「水棲生物」の域だ。
潜水中の彼の心拍数は毎分26回にまで落ち、血液中の赤血球の数に急激な変化が発生することが認められていて、文字通り、超人的な現象が彼の中で起きていると言える。
太古の昔、人間の祖先がかつて水中に暮らしていたこと、胎児は母体中で水棲生物そのものであること、そういった人類のルーツへの回帰が見てとれる気もする。

映画中の彼もまた、海に生きていた。
口数が少なく、いつも静かな笑みを浮かべる彼の心は、誰にも覗くことができない。
どんなときも自由で、理屈も説明も及ばぬ境地で海を愛している。
そんな彼に、ライバルであるエンゾも、押しかけるように恋人になったジョアンナも、無条件に魅了されている。

確かにそういう男は魅力的に映るものだ。
何を考えているか分からないミステリアスな男。
純粋で無邪気だけれど、だからこそ余計に自らの欲求や感情だけに従い、結果として他者を傷つけることに鈍感な男。

もうずっと昔のことだけれど、私がこの映画を観たのは、そういう不可解な男を好きになって、どうしようもなく傷ついてしまったとき、ある女友達が「きっと彼は『グラン・ブルー』みたいな人なのよ」と言ったことがきっかけだった。

恐る恐るビデオを借りて観た。
そうすると、確かに、私がそこに見たのは、呼吸もままならない海の底だった。
けれど、ジャックにとっては、そこが安息の故郷なのだ。

どんなに愛してくれる人がいても、どんなに守るべき者があるとしても、彼を動かすのは、もっともっと衝動的で、もっともっと原始的なもの。
たぶん、彼は、人間のかたちをしたイルカなのだろう。

「グラン・ブルー」は、忘れられない映画だ。

でもそれは、私にとって、ずっと昔の話。

グラン・ブルー Le Grand Bleu(1988年・仏)
監督:リュック・ベッソン
出演:ロザンナ・アークェット、ジャン・マルク・バール、 ジャン・レノ他

■2008/6/24投稿の記事
昔のブログの記事を少しずつお引越ししてきます

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田中優子
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