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マジックミラーをはさむふたり-パリ、テキサス-

たどってみれば昨年の11月。
ある映画レビューサイトに私はこんなコメントを載せた。
青い空と乾いた荒野が鮮烈な、ヴィム・ヴェンダースの作品「パリ、テキサス」についてのレビューだ。

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ここで言うパリは、テキサス州内の小さな町のこと。
でも、その名がゆえのエピソードが結構重要な意味をなしてもいる。
ある事件のショックで放心状態のまま4年も放浪を続けた主人公が数年ぶりに弟夫婦の元に帰ってくる。
弟夫婦に我が子同然に育てられ、父のこともほとんど忘れてしまった主人公の幼い息子。
この父と息子の不器用な交流。
別れた妻、その幻想を探す旅。
多面体であり、奥行きがあり、時とともに移ろう人の心。
一時たりとも同じ姿のままとどまっていてはくれない。
そんな現実の中で、私たちが愛しているのは、その人そのものなのか、それともその人に対する自分の中のイメージなのか。
「あなたは変わった」という、ありがちな別れる理由について、ちょっと考えながら遠くを眺めてしまう。
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パリという名を聞けば、多くの人の心は躍る。
花の都。アートの都。AmoirとRendez-vousの都。

でも、このパリはイメージを裏切る。
荒野の中の、退屈な町だ。

あるいは、マジックミラーを通して向き合うふたり。
こちらから見えても、相手から見えない。
相手から見えても、こちらから見えない。

ちょっとした光の加減で、どちら側が闇の中に入るかが決まる。
少し間違えれば、鏡の向こうに映るのは、相手ではなく自分。

恋をして知るのは、もしかしたら、相手以上に自分のことかもしれない。
相手に対する自分の気持ちの確認のしかたにしても、いつだって、「こんなにも彼のことを考えている自分」だとか「ちょっとしたことで幸せを感じる私」だとか、いつもいつもどこかワンクッション置いて、ミラーに映して気づくことばかりだ。

こんなにも好きな人を、なぜ直視することができないのか。
本当に大切な人のことを、なぜ正しく知ることができないのか。

好きが強いうちほど、心の距離が埋まらないのはなぜだろう。
自分の気持ちの正当化のために、後づけで相手のよいところ、悪いところ、好きなところ、嫌いなところを探そうとするのはなぜだろう。
心が惹かれるときには、全てよいほうに。
心が離れるときには、全て悪いほうに。

「恋は想像から始まる」と昔、テレビドラマの中で深津絵里が言っていた。
それは正しい感覚だと思う。
「あの人はどんな人なんだろう」という好奇心を端緒にして、「あの人のキスってどんななんだろう」「あの人に愛されるってどんな感じなんだろう」「あの人と送る人生ってどんななんだろう」と想像は膨らんでいく。
その上で、「きっとこうに違いない」というふうに、イメージが現実を追い越していく。

そして些細なすれ違い、誤解、嫉妬、が、自分の中の相手のイメージを変えていく。
悲しいことに。

でも、それでも恋は始まらないより始まった方がいい。

一生のうちに、誰かを好きになるという経験は、何十回もあるわけじゃない。
意図して誰かを好きになれるわけじゃない。
それはいつも突然で、「恋をしたい」というつぶやきの次の瞬間、目の前に現れたりする。
だから私は、その奇跡のような出来事を、その気持ちと、そこから紡がれていく相手との関係を、大切に大切にしたいと思う。
その、恋の糸を、決して逃さないように。指からほどけてしまわぬように。

それがどんな恋だとしても。
いろんなものを敵にしても。
ときには体がばらばらになりそうなほど、苦しいものだとしても。

臆病になったり、見誤ったり、馬鹿なことをしたり、されたり、傷つけたり、傷つけられたり、人と関わっていけば、ありとあらゆる失敗と幻滅があるものだけれど、それでも、あらゆるものに変えがたい歓びが、恋にはある。

人生は、大好きなものを増やすプロセス。
去るときには去る場所に。
訪れるときには訪れる場所に。
あらゆる場所に、愛するものができる。
学校を卒業するときも、会社を辞めるときも、故郷を後にするときも、何度も何度もそれを確認してきた。

そして新しく始まる生活の中に、新しく愛するものが待っている歓びも、ちゃんと知っている。
私は、それを幸福と呼ぼうと思う。


パリ、テキサス Paris, Texas(1984年・西ドイツ/仏)
監督:ヴィム・ヴェンダース
出演:ハリー・ディーン・スタントン 、ナスターシャ・キンスキー 、ハンター・カーソン他

■2004/10/8投稿の記事
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田中優子
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