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それぞれ-空が高すぎる-

年末年始に実家に帰るのは渡り鳥の習性のようなものだから、帰省ラッシュの混雑に押しつぶされながらでも、年の暮れには実家に帰る。
東京に戻る航空券は4日の夕方で予約していたのに、両親は正月3日から3泊4日の旅行に出てしまったので、駅までの足がない。
私の実家は、車がないと生活に不自由するくらいの田舎だ。

弟に乗せてもらおうかと思っていたところ、たまたま前日に遊びに来ていた父の妹にあたる叔母が、「ほしたら、おばちゃんが送って行ったるやんか」と言ってくれて、「ほしたら、頼むわ」と甘えることにした。
「おばちゃんが送っていったるやんか」と言っても、叔母は運転免許がないので、運転して乗せていってくれるのは叔父の方なのだが。

途中で神戸の友人の家に寄ると言ったら、
「明石まで送ったるわ。魚ん棚で玉子焼食べよか」
「あ、ええなあ。それ、ええやんか」となる。
魚の棚商店街に行くのも、明石焼を食べるのも久しぶりでうきうき。
「お母ちゃんも一緒に行こ」と叔母が祖母を誘って、4人で連れ立つそれもうきうき。
最近はすっかり出不精の祖母も、実の娘に誘われると、「ほんなら、行こか」と腰が上がる。

東京の人はご存知でない方もあるだろうか、明石焼はたこ焼きと似ているが、もっとふにゃふにゃとろとろしてやわらかく、ソースや青海苔で味付けせずにプレーンなままだし汁につけて食べる。
歴史はたこ焼よりも古く、たこ焼の原型になったと言われている。
そして、明石焼のことを、地元の人は「玉子焼」と呼ぶ。

「魚ん棚」は、明石駅近くにある、魚の棚商店街の通称で、有名な明石の鯛や蛸、穴子といった瀬戸内の海産物中心の商店街だけれど、そのところどころに玉子焼専門店があり、玉子焼を食べると言えば魚ん棚と決まっている。
月島もんじゃみたいなものか。

正月4日の魚ん棚は静かなものだった。
市場がまだ開いていないのだ。

鮮魚を売る店はどこもシャッターが下りて、開いているのは干物屋と玉子焼屋ばかり。
年末には、名物の鯛の姿焼きなどを求める買出し客でごった返すのだが、その日は、わずかな客足で混み合うところはない。
昼時に少し早かったというのもあるかもしれないが、有名どころの玉子焼屋も結構な賑わいはあるものの、行列はなくすんなり入れた。

油ベタベタ床の店を切り盛りするのは、ベタベタの関西弁の、ベタベタのおばちゃん。
馴れ馴れしいというか、厚かましいというか、こういうおっちゃんやおばちゃんのまくし立てる関西弁に包まれると、「あー、地元やなあ」と無性に嬉しくなる。
東京で知り合った友人たちは皆な意外がるが、私は、地元に帰れば関西弁しかしゃべらない。
私は東京大好きやけど、心は一生、関西人やで。

「玉子焼4つ!」と叔母が、ちょっとはしゃいだように注文する。
叔母は、いつもちょっとはしゃいだような人だ。

この叔母を見て、サザエさんのワカメちゃんがそのまんま大人になったような人だなあといつも思う。
素直で優しく穏やかで、いつもニコニコとしていて、ちょっと内気で甘え上手。
結婚はしているが子どもがないのもあってか、永遠の少女のような雰囲気がある。

叔母は、商業高校を卒業して、見合いをして地元の伝統産業である手引き鋸の製作所に嫁ぎ、夫や舅姑と一緒に商売を営んできた。
今は、舅も姑も亡くなり跡継ぎもないので、数人の従業員とともにこじんまりとやっている。

私が中学生のとき、伝統産業にまつわる絵を描くことが夏休みの宿題に出て、叔父の工場に赴いて、職人さんの作業する姿をデッサンさせてもらったことがある。
薄暗い工場の中で、火花の飛ぶ研磨機に向かう繊細な所作は美しく、私の目にごく神聖なものとして映った。
そのデッサンを下絵にして水彩画を仕上げたのだが、その絵は県のコンクールで結構立派な賞をいただいて、しばらく学校の階段の踊り場に飾ってあった。
なにげに私は美術の成績が良くて、賞をもらうことや、学校の渡り廊下にそれが額付で展示されるということは度々あったのだけれど、あの絵は、我ながら満足できる、いい絵だったと思う。

私が法学部の学生だった頃、叔母から滅多にない電話がかかってきて、取引にまつわる法律相談を受けたことがある。
ちょうど手形法を習ったばかりだったので多少のアドバイスはできたのだが、そこで自ら商売をやるということのシリアスさを改めて痛切に感じ、叔父や叔母、そして同じように商売を営む両親が日々向き合っているものに対して、畏敬の念をおぼえた。

時代の流れから、手作りの手引き鋸に将来性は薄く、叔父が引退するときにあの工場も閉鎖されることになるだろう。
無口だが気の優しい叔父と朗らかな叔母がそうやって何十年も苦労しながら守ってきた商売も、もう10年続くかどうか分からないほどになっている。
それは寂しいことだが、時代の流れには逆らえない。

叔父と叔母は仲がいい。
運転免許を持たない叔母が、車が必需品の環境で生活していけるのは、どんなときも叔父と一緒だからだ。
一緒に寝起きし、一緒に職場に行き、食事をするのも買い物に行くのも、月に一度の鹿島神社参りも、全て一緒だ。

ふたりの間に子どもはできないということが分かったとき、昔のことだし見合い結婚だったから、両家の間では離婚という話も持ち上がったそうだ。
けれど、ふたりはともに生きることを選択し、別れることはしなかった。

ふたりを結びつけているものが何なのか、簡単な言葉で済ますのが憚られる気がするが、それはおそらく、限りなく純粋な愛、それ以外の何も見当たらない。

「ちっち、って言うねんで」
玉子焼を箸で挟みながら、叔母がやっぱりはしゃいだように言う。
「物忘れしたり、あほなことしたりするやろ?そういうとき、ちっちやな、って言うねん。
痴呆やな、っていうこと。あんた、今日はちっちやなーって。
おっちゃんとおばちゃんだけの暗号やねん」

叔母が「な」と相槌を求めると、叔父は「おう」とだけ応えた。

叔母には叔母の、人生がある。
そういうことを思い出す。
ふたりが末永く元気で、幸せであってくれればいいと思う。

明石駅の改札で、礼を言う。
「おばちゃん、買うたるわ」と言ってもたせてくれた、明石名産「丁稚羊羹」をたずさえて。
ホームへ向かう階段のところまで何回も改札を振り返ったが、叔父と叔母と祖母はいつまでもそこにいて、その度に手を振ってくれた。

私は、昔から、「それぞれ」という言葉が好きだ。
中学のときに小田和正の歌を聴いて、きっと小田和正も「それぞれ」という言葉が好きなんだろうと思った。
気のせいかもしれないが、彼の歌詞には「それぞれ」が多く、それが醸す世界観にも「それぞれ」が滲んでいる。

帰り道、15年余り前によく聴いた「空が高すぎる」がリフレインする。

故郷に生きる人の、それぞれの人生がある。
東京に帰る私の、私の人生がある。

羽田に着くと、旅行中の母からメールがあって、「旅先で25年ぶりに短大時代の友達に会いました。嬉しかったです」と書いてあった。

母にも、母の人生がある。


空が高すぎる
音楽:小田和正

■2008/1/10投稿の記事
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