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Wonder Aging®︎誕生までのヒストリー
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最悪の出来事が最高の出来事に変わるまで
誕生
1965年10月30日に岐阜県岐阜市柳津町で生まれました。両親と祖父母、5歳上の姉という家族構成でした。
昭和という時代背景と親戚筋の子供は女の子ばかりだったという理由で、長男(後継)としての期待はとても大きいものでした。
祖父(教師)も父(学校事務)も公務員であったため、教師になることを望まれていました。
ひとりぼっちの小学生
「叔父が子供の頃、外で遊んでいて片手が使えなくなる障害を負ったこと」「父は若い頃から体が弱く、大病を患って余命宣告を受けたことがあったこと」などが理由だったのだと思います。
幼い時はほとんど外で遊ばせてもらえませんでした。
そのせいもあり運動神経の発達が遅れていて、みんなと一緒に上手に遊べませんでした。(フットベースボール、ドッヂボールetc)
私が入ったチームは必ず惨敗してしまうので、いつのまにか仲間に入れてもらえなくなりました。気づいたらいつもひとり。一緒に遊んでくれる友達はいなくなっていました。
小学生の頃のイメージは、昼休みに遊ぶクラスメートを一人で窓から見ている風景です。
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大嫌いな雨上がり
気がつくとイジメられるようになっていました。お腹が痛くなってトイレでウンチをしていると頭の上から水が降ってきました。
当時はやっていたプロレス技の実験台にもよくなりました。
当時の私は雨の日が大嫌いでした。みんなが傘を持ってくるからです。学校の授業が終わるまでに雨が止んでしまうと、下校の時、数人に囲まれて傘で刺されながら下校しなければならないのです。私は傘で刺されながら情けない自分の顔を見られないように、そして涙が見えないように、歯を食いしばりながら下を向いて歩き続けていました。
僕の大切なものはよく間違って捨てられてゴミ箱の中にあったなぁ〜。
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違う星からちょっとだけ立ち寄っただけ
いつになったら変身して故郷に帰れるんだろう?
姉の影で
5歳上の姉がいます。
姉は子供の頃とても優秀で社交性もありました。いつも友達に囲まれている姉を羨ましく思ったものです。
お正月は大嫌いでした。家族の中で僕だけ年賀状がこなかったからです。
姉は勉強もできたので、家族が僕を褒めてくれることはありませんでした。今考えれば「まぁまぁ」の成績だったのですが、自分はとてもデキが悪い子供だと感じていました。
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中学校での体験
中学校(岐阜市境川中学校組合立境川中学校)に入学と同時にハンドボール部へ入部。当時の境川中学校のハンドボール部は強豪で人気がありました。グランドを駆ける先輩たちの動きが、とてもカッコ良くて、自分の未来の姿と重ね合わせ、少ない勇気を振り絞って入部。新入部員は36名。
とても運動神経が悪かった私は「練習の邪魔になる」という理由から、他の新入生と一緒に練習させてもらえませんでした。ハンドボールのゴールの後ろでずっと一人きり、「おぞぇー」と声を出し続けることになりました。
ある日のこと、一人ゴール後ろで声を上げていたら胸の奥の方から、なんと表現して良いか今でもわからない感情が突然、溢れ出しました。頭と目の周りが熱く、とても熱くジッとしていられなかった私は、先輩の元に走り出していました。
とある先輩の近くまで走り寄ると、「僕はいらないんですよね」と体の奥の方から言葉を絞り出していた。「おう、いらん」という言葉尻に、生まれてから一番大きかったと思える声で「じゃあ走ってきます」と叫んで一目散に走り出した。
その日からグランドについて道具出しをしてから、一人で走り続ける日々が続きました。今考えればこの選択は素晴らしいものでした。私の人生で最高の選択だったと言えるかもしれません。走ることは全ても運動の基本。走り続けて足が速く持久力がついてきた姿を見ていた数人の先輩が声をかけてくれて練習に参加させてもらえるようになったのです。
後のメンバー選抜で15名だけもらえる背番号付きのユニフォーム(私は13番)をもらうことができました。
人生で初めて自分の手でつかみ取った進歩でした。僕に練習をさせてくれなかった先輩。心の底からありがとう!
走り続ける僕をみていて、練習に参加させてくれた先輩ありがとう!
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県大会決勝戦!
高校生(岐阜県立長良高等学校)になっても、人付き合いは上手くありませんでしたがハンドボールは多少上手くなっていました。
レギュラーとしてトップというポジションを任されていました。トップレベルの選手にはなれませんでしたが、運動能力が低すぎることがキッカでイジメられた小学生は、スポーツを楽しめるレベルに成長できました。
高校3年の時、県大会で決勝戦にコマを進めました。試合後半、あと数分という時点で1点差でリードしていたのですが、勝利を確信した直後、私のパスミスから同点に追いつかれ、動揺している間に続けて1点・・結局東海大会出場は叶いませんでした。
当時のチームメイトに会うと、いまだに、このパスミスについてからかわれますが、この経験は私にとって、とても大きなものです。
やり方さえわかれば人生は自分の力で変えられるという「認識」を手にする事ができたからです。
運動能力が未発達で、中学では練習にさえ参加させてもらえなかった私が、6年間走り続けたことで、高校生レベルではありますが県大会で優勝を争えるまでになれました。
この経験はその後の人生にとても大きな影響を与えてくれることになりました。
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大学時代(チャレンジ)
高校時代は運動が苦手という意識は克服しましたが、小学校時代のイジメの影響もあり、相変わらず人に心を開いたり、信じることができませんでした。
大阪の関西大学商学部へ入学しましたが、入学当初人に話しかけることができず、言葉を発しない日々が続きました。寂しくてたまりませんでした。
ある日のこと、アパートの郵便ポストに入っていた「コミュニケーションスクール」というタイトルが目立つ、一枚のチラシを見つけました。直感的に「これをしかない!!」と感じ、そのスクールへと向かいました。
面談を受けた後、入学金約35万円(当時マクドナルドの時給は420円から)と聞いて息を呑んだ私でしたが、その直後、体の奥の方から湧き上がってくる、なんとも言えない感覚に突き動かされて入学を決意しました。中学の部活動で練習させて貰えなかった僕が、「走ってきます!!」と声をあげた、あの時の感覚に似ていた気がします。
コミュニケーションスクールに入学した日、2つのことを指示されました。
自分が話している姿を自宅で撮影するためにビデオカメラを購入すること
今ではスマホで簡単に動画を撮影できますが、当時はVHSというテープを本体に押し込んで撮影するハンディカムというビデオカメラ(確か37万円程度)を購入。会った人に全員挨拶すること
今では簡単にできることなのですが、当時の僕には「とんでもないこと」でした。知り合いなら勇気を出せば挨拶できるけれど、知らない人に自分から挨拶するなんて、いわゆる清水の舞台から飛び降りたつもりでもできっこない恐ろしい要求だった。
今にして思えば2の要求が1のビデオカメラを買った後だったことが、とてもラッキーだったと感じます。入学金35万円、ビデオカメラ37万円、合計72万円(学生の僕にはものすごい大金)を支払った後だったので、「課題をしない」という選択ができなかったから。
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「課題を絶対にこなせない」と感じる僕と、「もう戻れない」という僕の脳内会話が延々と繰り返されました。僕が導き出した答えは以下のようなものでした。
「絶対にできない」なんてことはない。
中学の時も走り続けたら周りの景色が変わっていた。今回も必ず「今」を変える方法があるはずだ。「今できない」ことはできなくていい。
基礎ができていないのに、基礎をすっ飛ばして結果を出そうとしても良い結果なんて出ない。課題ができるようになるために「今の自分にできること」をやってみよう。
導き出したチャレンジは以下のようなものでした。
「会った人全ての人に頭の中で挨拶する」
「そんなことしてなんになるの?」
そう思われる人も多いかもしれません。その時の僕には「何もしない」という選択肢はなかったし、声を出して挨拶するという選択肢もなかったのです。
目標につながること、その中で「今の自分にできること」の最大限が「会った人全ての人に頭の中で挨拶する」ことだったのです。
とにかくやり続けました。通学途中の駅で、大学の校内で、喫茶店で、商店街を歩く時も頭の中で挨拶をし続けました。続けていると、心の中に少しだけ余裕が生まれてきました。相変わらず頭の中での出来事でしたが、「心を込めて」「優しい声で」「明るい気持ちで」etc、少しづつオプションをつけていきました。
ある日のこと、優しそうなおばあさんと目が合った瞬間、「おはようございます」と挨拶していました。自分でもビックリ!!
胸の前で拳を握りしめて、誰もみていないガッツポーズ。
できることを見つけ、できることのチョットだけ上にチャレンジ、精一杯を続けていれば自分の中で何かが変わっていく。
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その後はトントン拍子!
目が合った人には挨拶できる
機嫌がよさそうな人には挨拶できる
後ろからでも挨拶できる
無視されても気にならない
挨拶が楽しい
挨拶することで気分が良くなる
優しそうなおばあさんのおかげで成功体験をすることができた僕は、「絶対にできない」と思っていたことを軽々とやってのけられるようになっていました。おばあちゃん、ありがとう!!
PS:おかげでマクドナルドでバイトできるようになって、時間はかかりましたが、支払った72万円は回収することができました。
大学時代(もう一つのチャレンジ)
大学に入って始めたことがもうひとつあります。
バンド活動です。
小学生の頃から一人の時間が多かった僕の心を支えてくれたのは歌うことでした。言葉にできない寂しさや悲しみ、怒りを、歌が体の奥の方から取り出して自分を癒してくれていた気がします。
「人前で歌ってみたい!」その頃から、僕の中にそんな気持ちがあったのですが、「自分の歌を聞いて喜んでくれる人なんているのかな?」という気持ちが強かったので、その思いを現実にするための行動をとることができませんでした。
ですが、運動とコミュニケーションという二つの苦手から解放された僕は、「今の自分では歌で人に喜んでもらえなくても、チャッレンジを続ければ、喜んでもらえるようになるかも?」という思いが生まれていました。
1年生の時はバンド活動をする勇気を持てず、テニスや飲み会などをしているサークル(ボヘミアン)に何となく所属したのですが、2年生になった時、ずっと胸の中にあった思いを叶えるための行動をとることができました。ボヘミアンをやめて関西大学内の音楽サークル、ポピュラーミュージック創作研究会-(POP研)に入りました。
人前で歌を歌うという勇気を持てた大学2年生です。
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とても難しく勇気がいる人っているんだよね〜☺️
大学時代(変わっていく自分)
勇気を出してバンド活動を始めた日から、音楽活動中心の日々が続いた。 歌って喜んでもらえると、本当に嬉しかった。 「才能があるんだ」、「胸を張れることがあるんだ」、「自分にも価値があるんだ」と思えた。
大好きな音楽というフィルターを通して関わる友人は、これまでと違う感じがした。一緒にいると心から穏やかな気持ちになれた。僕が存在しても良い場所があると思えた。
もっと上手くなりたくなった。一人で淀川の河川敷、何ていう橋の名前かは思い出せないけれど、人気の少ない、その橋の下でボイストレーニングを繰り返した。
初めて作った曲
当時の僕、根本は今もそんなに変わらないと思うが、今振り返るとビックリするぐらいネガティブ思考だった。二十歳前の、これから、なんでもできる可能性を持っているのに、「嘘」「すり抜けて」「夢とはぐれて」etc
そんな言葉がてんこ盛り!
生きているうちにタイムマシンが発明されて、その時に戻れるなら言ってやりたいことが山ほどある。
でも、当時の僕の中には、まだまだ「孤独」「悼み」「怒り」みたいなものがたくさん残っていたから、最近では「まぁ許してやろうか」と思うようになっている。
大学時代(回り道)
大学4年の試験期間中に自動車事故を体験!!
歩道の段差に打ちつけた腰骨にヒビが入ったため緊急することになりました。
卒業に必要な単位の取得状況は良好だったので、受けられない試験はありましたが卒業はできそうでした。
ただ一つだけ問題が発生!!
教員免許を取るために必要な講義の試験をいくつか受けることができなかったため教員免許取得ができませんでした。
実を言うと祖父は戦時中、先生たちが出征した先生の代わりに小学生の頃から教壇に立ち始め、定年退職まで教員として勤め上げました。父は当時不治の病だった結核から一命を取り留め、中学校の事務員として定年まで働きました。
その影響で、幼い頃から「先生になるんだよ」「公務員にならなきゃ」と言われて育った私(洗脳状態っていうヤツですね)は、教員免許を取れないことがとても恐ろしかった。(心の中では教員になりたいとは思っていませんでした)、そこで関西大学卒業後、京都の佛教大学国文学科に編入して教員免許を取得しました。
自分がしたいことをしたいことを言葉にする勇気がなかったから、いや自分が本当にしたいことさえわかっていなかったからです。
周囲から認めてもらうことに必死で、本当の意味で自分の心と向き合った経験がなかったからです。
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社会人一年生(サラリーマンに)
佛教大学を卒業して教員免許は取得しましたが結局教員採用試験は受けませんでした。
「教員にはなりたくない」という言葉を口にするために2年以上の回り道が必要でした。家族の期待を裏切る罪悪感を払拭するのにたくさんの時間が必要だったのです。
結局当時一部上場で安定していると思えたIT企業に入社しました。今から考えると本当にやりたい仕事ではなかったと思います。当時の私は子供の頃から母から言われ続けた「安定した仕事につかなくてはいけない」という言葉の魔術にかかったままで、自分の心と対話をすることができませんでした。結局私の回り道はまだまだ続くことになりました。
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とてもいい奴らでした
プロになりたい!
サラリーマンなると色々なことが変わる。「やりたいこと」ではなく「やらなければいけないこと」をこなす毎日が続く。まだまだ残業をしない奴はやる気がない奴だと白い目で見られた時代。仕事が終わって終電で家に帰ると会社から電話。「システムトラブルだ。今すぐ来い!」と呼び出され、タクシー(会社持ち)で会社にトンボ返りしたものでした。
たくさん働いたのでお金には不自由しなくなったし、プログラムを作ることの面白さもわかってきたのですが、ふと頭に浮かぶことは「もっと真剣に音楽をやっていたら、どうなっていたのだろう?」という思いでした。そして、次第に音楽で食べていきたいという気持ちが強くなっていきました。
ちょうど、その頃、大学時代のサークルの仲間と会う機会があり、盛り上がった流れで一緒にバンドを始めることになりました。当時、私は岐阜、そいつは名古屋に住んでいて、他のメンバーが大阪に住んでいたので、大学時代、いつも使っていたスタジオで毎週練習をすることになりました。
数年間、ほぼ毎週大阪に通いながら、結果がついてこない現状に、結局メンバーと喧嘩別れ。今から考えると「大好きな音楽をやっているのに、なぜあんなにイライラしていたのか?」と思います。
心理カウンセラーを15年以上やってきて、今は、その理由がわかるようになりました。
「認めてほしい」「自分は特別なんだ」「なんでわからないんだ」「あいつらを見返してやりたい」
自分の気持ちを満たすために音楽をやっていたから・・。
歌だけではない。普段使っている言葉だって、誰かを幸せにするために使っている人は、自分から、それを求めなくても、自然とそうなっているものなのにね。
そして結婚 独立
大学時代からお付き合いしていた女性と結婚後、家庭の事情でIT企業を退社することになりました。
その後、住宅販売、MLMビジネス、株式投資などを経て独立することになりました。
アマチュアミュージシャンを支援するインターネットシステムを開発し、インディーズレーベルとしてCD制作を行なっていました。自分に自信が持てなかった私は、たくさん働いて事業で成功することで周囲から認められたいと思って懸命に働き続けました。
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本質を間違っている成功は簡単に崩れてしまう
離婚 うつ病 廃業
懸命に働き続けた私は一時的な成功をしていました。しかし自分を大きく見せるために働き続けた私は、本当に大切にするべきものを大切にしませんでした。そしてある朝、突然妻から離婚を切り出されました。当時の私は妻の寂しさ、悲しさに気づくことができず、ただ私の意地という理由だけで離婚を受け入れました。
離婚を受け入れたものの、その後は心のポッカリと穴が開いたような時間が続き、働く気力もなくなり、いつの間にか一日中お酒を飲んでいる日々が続きました。当然会社は仕事がとれなくなって廃業することになってしまった。
その後5年間うつ病で何もできない時間を過ごしました。とあるきっかけで「立ち直ろう」と決意しました。その時、その決意を忘れないために曲を書きました。
※芸術ってすごいですね。本を読んだり、将来について考えることは何もできなかったけれど、メロディーや歌詞が心の奥の方から流れ出してきました。
再起動
うつ病から立ち直ると決めてから2つの取り組みをスタートしました。それしか思いつかなかったからです。
ひとつは刺激等製法。何年も前にカウンセラーさんから「刺激統制法をしてみましょう。お花の写真を取りましょう!」といわれていたのですが、「バカしやがって」と腹を立て、一切取り組まなかった技法です。
当時の私は心の知識が乏しく、他にやることを思いつけませんでした。「今やれることなら何でもしてみよう」と取り組みはじめることができました。
もうひとつはボクシングです。うつ病もひどくなると思考力や集中力が低下するので、本を読んだり勉強したりすることはできませんでしたが、幼い日から興味があったボクシングなら、なんとなくできそうな気がしたのです。
多分私はとてもツイているのでしょう。この時はじめたリハビリ法は大正解でした。少しずつ思考力、快を感じる感覚、体力・気力が戻った私は心理カウンセリングの学校に通いはじめました。
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開業〜42歳の再出発
リハビリに取り組みはじめてから少しずつ回復の兆しを感じはじめた私は、日本カウンセラー学院に入学して「心」の勉強をはじめました。
「心」の勉強は、これまでの自分の人生を振り返り見直すためにとても役に立ちました。回復のスピードが加速していきました。
やがて私は心から「心理カウンセラーになりたい!!」と思うようになりました。
日本カウンセラー学院を卒業と同時に、日本臨床心理カウンセリング協会で「認定心理療法士」「認定臨床心理カウンセラー」の資格を取得し、2009年1月に心理カウンセリングルーム「メンタルフィットネス」を開業しました。
カウンセリングルームの立ち上げと試行錯誤
心理カウンセリングの学校を卒業したあと、僕は実家の一角を使ってカウンセリングルームを開くことにした。そこは昔、駄菓子屋をやっていた場所だった。幼いころの荒れ果てたその場所が、当時の自分の姿と重なって見えた。ここから新たな一歩を踏み出すことで、新しい世界が開けるような予感がしたのだ。
とはいえ、資金が潤沢にあったわけではないというのも大きな理由だった。できることは全て自分でやるしかなかった。リサイクルショップで机と椅子を買い、観葉植物をたくさん置いて、少しでも落ち着ける空間になるよう工夫した。 そして「メンタルフィットネス」という名前をつけた。心も体と同じように、鍛えることができるはずだという思いからだった。
しかし、ただ開業しただけでは人は来ない。知名度を上げるため、私は毎日記事を書いた。ホームページを立ち上げ、心理学のこと、自分の考え、カウンセリングについての話を発信し続けた。当時はまだ、カウンセリングルームがホームページを持つことは珍しく、そのおかげもあってか、徐々に予約が入るようになった。
とはいえ、最初の数ヶ月は決して順調とは言えなかった。予約は入っても、ほとんどの人が1回きりで終わってしまう。私の技術不足も一因かもしれないし、そもそもカウンセリングを継続する文化が根付いていなかったのかもしれない。それでも「また来たい」と言ってくれる人が少しずつ増え、1年後にはようやく生活できる程度の収入を得られるようになった。
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焦っても何も変わらない
7年間の闘病生活を通して学んだことは2つあります。「みっともなくても、カッコ悪くても、その時の自分を受け入れること」そして「今できること以上のことはできないと認め、今やれることを精一杯やることが大きな力を生み出すこと」です。つまり、「どれだけ焦っても、何も変わらない」という原理原則に気づいたのです。
焦っても、状況は変わりません。できることはただひとつ。「今の自分にできる最善のことを、誠意いっぱいやること」です。この深い気づきを得られたのは、7年間の闘病生活があったからこそだと思います。
そして、少しずつ状況が変わり始めました。カウンセリングにおいても、相手に「何かをしてあげよう」とするのではなく、「目の前の人を誠実に見つめ、その人の中にある素晴らしいものを見つける」ことが大切だと考えるようになっていきました。
Wonder Aging®︎ 誕生までのヒストリー
体へのアプローチ①
カウンセリングルームを1年、2年と続けるうちに、「この仕事で生きていく」という自信がついてきた。すると、次第に「もっとできることがあるのではないか?」と考えるようになりました。
その一方で、自分がやっていることに対して、小さな疑念が芽生え始めていた。カウンセリングの手法には確かに効果があるものの、同じアプローチでも変化が生まれる人とそうでない人がいる。なぜなのか?
そんな疑問を抱えているとき、自分自身の経験を振り返る機会があった。僕は、調子が悪いときにカウンセリングで回復したわけではなかった。むしろ、最もつらい時期には人と話すことすら苦痛で、言葉によるアプローチは響かなかった。本当に変化が生まれたのは、ボクシングを始めたり、花の写真を撮る(刺激統制法)ことを続けたりしたときだった。つまり、最悪の状態を抜け出す鍵は「体を動かすこと」と「美しいものを見ること」だったのだ。
そこで、視点を変えてみることにした。
カウンセリングの場に「身体を使ったアプローチ」を取り入れたらどうなるのだろう?
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そう考え、ジムの一部を改装してトレーニングルームを作った。そして、言葉でのカウンセリングが難しい人に対し、深呼吸やストレッチ、軽い運動を取り入れる ようにした。すると、それまで変化が見られなかった人たちに、少しずつ良い兆しが見え始めた。
そこで、僕は ある大きな誤解 に気づいた。
それまで僕は「心は心、体は体」と別々のものだと考えていた。しかし、それはただの思い込みだった。実際には、心と体は深くつながっていて、どちらかが停滞すれば、もう一方も動けなくなる。
考えてみれば、体がだるいと気分も沈むし、逆に体調が良いと前向きになれる。当たり前のことなのに、それを見落としていたのだ。さらに調べていくと、筋肉の成長に関わる「ルーの法則」は、筋肉だけでなく、神経や思考、ホルモン分泌にも影響を与えることが分かった。つまり、体を鍛えることは、心にも変化をもたらす可能性があるのだ。
進歩とは、視点を変えたときに生まれる。
そして、僕たちは気づかぬうちに「前提」に囚われ、その可能性を自ら狭めていることがある。
この経験を通じて、僕の考え方は大きく変わった。心のケアだけでなく、体を動かすこともまた、人が前に進むための大切な要素なのだと確信した。この気づきが、僕の次の一歩につながっていくことになる。
体へのアプローチ②
「トラウマをヨーガで克服する」との出会い
ある日、Amazonで何気なく書籍を探していたら、一冊の本が目に留まった。
『トラウマをヨーガで克服する』
このタイトルを見た瞬間、まるで本に呼ばれたような気がした。
心理カウンセラーとして、人の心の問題に向き合う日々。自分自身もボクシングを通じて体を動かすことでうつ病を克服し、心と体の関係には確信を持っていた。しかし、この本には、これまで僕が持っていなかった視点を提示していた。
ヨガを通じて「トラウマが体にどのように刻み込まれているのか」を理解し、体を動かすことで心の奥底にある傷に向き合う。読んでいくうちに、ヨガが単なるストレッチやリラクゼーションのためのものではなく、心の回復に深く関わるものだと気づいた。
「これは学びたい」
そう強く思い、ヨガ講師の資格を取ることを決意した。
ヨガ講師の資格を取る決意と学び
ヨガの世界では、始めて体験することばかりだった。
資格を取るための講座に通い始めたものの、最初はただの柔軟性向上や呼吸法のトレーニングだと思っていた。しかし、実際に学びを進めるうちに、それ以上のものがあると気づかされる。
「体の動かし方ひとつで、心の在り方が変わる」
例えば、胸を開いて呼吸を深くすると、自然と前向きな気持ちになる。逆に、体を丸めて呼吸を浅くすると、不安や落ち込みを感じやすくなる。これは単なる感覚ではなく、神経系やホルモンの働きとも関係している。
特に興味を持ったのは、「ヨガセラピー」の考え方だった。
ポーズ(アーサナ)や呼吸(プラーナヤーマ)を使いながら、心の傷やトラウマを解放するアプローチ。ボクシングとはまったく違う方法だけれど、共通しているのは「体を通じて心に働きかける」という点だった。
体との向き合い方と新たな気づき
ヨガを続けていて、ある大きな気づきがあった。
ボクシングの時は、「戦うための体づくり」をしていた。筋肉を鍛え、瞬発力を高め、先を読み、相手の心を読んで、相手に負けないように強くなるためのトレーニング。しかし、ヨガではその真逆のアプローチが求められた。
「力を抜くこと」
「呼吸を意識すること」
「今この瞬間の体の状態に気づくこと」
これまで「強くなること」を目指してきた自分にとって、「力を抜く」という考え方は新鮮だったし、難しくもあった。しかし、ヨガを続けるうちに分かってきたことがある。
自分の心と戦うのではなく、自分の心を見つめ、受け入れるというアプローチもあるのだと!
戦ってねじ伏せるのではなく、今の自分を見つめ、受け入れ、愛するというアプローチがあるのだと!
トラウマや心の問題に対して、必ずしも「打ち勝つ」必要はない。むしろ、「受け入れる」「共に生きる」という視点も大切なのだと、ヨガは教えてくれた。
妻との出会い
ヨガの学びがきっかけで、僕の人生にもう一つの大きな転機が訪れた。それが、今の妻との出会いだ。
ヨガの講師資格を取るための講座で、彼女と出会った。彼女もまた、心と体の関係に深い関心を持ち、学びを続けていた。
やがて、少しずつ話すようになり、ヨガを通して共に過ごす時間が増えていった。彼女の向上心と前に進もうという強い心に惹かれた。気づけば、一緒に人生を歩んでいくことを決めていた。
うつ病になって懸命に育てた会社を倒産させなかったら・・・
ボクシングを通してうつ病克服のキッカケをつかんだのではなかったら・・・
あの日、「トラウマをヨーガで克服する」という本に惹かれなかったら・・・
ヨガを学ぶ決意をしていなかったら・・・
この出会いもなかったと考えてみると、これまでの出来事は、すべて人生を豊かにするために必要だったのではないかと思える。人生とは不思議なものだ。
心の変化
心理カウンセラーとしても、以前よりもっと深く「心と体のつながり」を意識するようになった。クライアントに対しても、言葉だけでなく、体の使い方や呼吸、その他、これまで思いもつかなかったアプローチを提案できるようになった。
強くなることで克服する道もある。
力を抜くことで克服する道もある。
どちらの道を選んでも、それは「自分自身と向き合う」ことにつながる。
僕はこれからも、人を幸せにする方法を探求し続けるだろう。その学びを、必要としている人たちに伝えていきたい。