宮島未奈『成瀬は天下を取りにいく』 人はそんなに変わらない
『成瀬は天下を取りにいく』は4月に発表された2024年の本屋大賞の受賞作として話題になっていた。普段はあまり気にしない本屋大賞だけど、SNSでの話題の成りかたになんとなく惹かれるものがあったのと、書影に描かれた意思の強そうな少女のイラストが印象的だったことで、なんとなく読み始めたらあっというまにハマってしまった。気がつけば続編の『成瀬は信じた道をいく』まで3日で読み終わっていた。
主人公の成瀬あかりは琵琶湖に隣接する大津市に住む14歳、なにものにも動じることなく自分の考えをまっすぐに実践する女の子であり、彼女と関わった友人や周辺の人物の視点で語られる青春小説だ。彼女を取り巻く人々が彼女を語ることで読者にもはっきりと成瀬あかりのまっすぐなパーソナリティーが伝わる。読後感はとても爽やかで、もう成瀬あかりに会えないと思うと寂しくなった、同時にとても懐かしい気持ちになった。この読後感は何かに似ていると思ったら、70年代末から80年代に別冊マーガレットで活躍した沖倉利律子のセッチシリーズだとすぐに気がついた。不思議とひとりで少女漫画読み漁っていたあの頃の気持ちが蘇ってくる。
セッチシリーズとは、野球が大好きな女子中学生である武田世津子ことセッチが中学生活を通して、家庭教師である隣のお兄ちゃんや友人たちに囲まれながら少しづつ成長する様子を描いた青春漫画だ。恋愛はちょっとしたトピックとして出てはくるが、大きなテーマは友情や正直さ、誠実であること、大人になるということの難しさだったりする。僕はこのシリーズ、というか沖倉利律子の全ての作品にとても強く惹かれきた。ちょうどセッチシリーズに出会ったのも中1の頃、当時は沖倉利律子の何にそんなに惹かれるのかと考えることもなく繰り返し読んでいた。別マに新作が掲載されるとカラーの扉絵を切り抜いて集めるほど熱心な読者だった。
中学生の頃の僕は自分の言葉で考えることはできないし、かといって世の中というほど世界を知っているわけでもなく、しかし教師や親の話もそのまま鵜呑みにはしたくない。僕自身は比較的素直な子供だったし、親や学校に反抗することもなかったが、いや反抗するにしても怒るべき事象が自分にとって本当に間違っているのかも判断できないという、いま振り返るとなんとも中途半端な状態だった。学校で教わることもテレビや新聞が伝えてくることも、どう判断するべきか全てが保留状態というか、自分というものがとても不安定だった。そんな時に無条件でこれは信じていいと思えたのが音楽と漫画だった。ザ・クラッシュやザ・ジャムが本当のことを言ってると信じることができたように、沖倉利律子やくらもちふさこの漫画も同じように信じることができた。1979年から1985年の僕が中学から高校に通った時代は少女漫画の黄金時代の始まるタイミングだったから、とにかく狂ったように読み漁っていた。そんな毎日を過ごしながら、高校生になったらくらもちふさこの『おしゃべり階段』や『わずか1小節のラララ』や沖倉利律子がセッチシリーズ以降で描いたような高校生活が自分にもやってくるのだろうか、などと思い描いていた。実際は吉田秋生の『河よりも長くゆるやかに』だったのだけれど。成瀬シリーズはもう50も半ばを過ぎた僕に、中学時代の僕が漫画に出会った時に感じた信頼感を伴って伝わってきた。不思議なもので、もう二度と10代には戻れないことは当たり前のようにわかっているのだが、なぜか自分がまだ10代で成瀬あかりのような人物に出会うことがあるような気分になっていた。
僕が『成瀬は天下を取りにいく』を読もうと思った理由がもうひとつある。高校時代の同級生に主人公と同姓の友人がいた。タイトルを見たときに真っ先に思い浮かべたのも彼のことだった。特に天下を取りにいくという部分の字面がその彼にもピッタリだった。読み終えてさらにその思いは強くなった。主人公の成瀬あかりは自分の決めた目標にまっすぐに向かっていく、その姿は僕の同級生と被るものがあるのだ。彼も自分がやろうと思ったことにまっすぐに突き進む男だった、僕は成瀬あかりの相棒の島崎みゆきのように彼と数々の行動を共にした。一緒にフォークグループを組んだり、映画を作ったり、ここでは到底書くことのできない数々の事件や事故を放課後の藤沢、夜中の校舎や部室、学校の裏山で巻き起こした。
彼は自分の欲望にとても忠実で、簡単には諦めない男だった。成瀬あかりのように黙々と突き進んでいた。僕はそれまでそんな奴には会ったことがなかったし、その後も会ったことがない。ここ数年間彼に会っていないが、よく考えてみると高校時代から変わらず自分の道を邁進している。彼には迷いもないように見えたし、世間の常識も気にしていなかった。僕はどちらかといえばやんちゃなタイプは苦手なのだが、不思議と彼の行動を嫌だと思うことはなかった。それは彼の行動原理に嘘がないからなのかもしれない。もちろん彼にも人生の上で様々な悩みや逡巡は当然あっただろう、しかし彼がそれを見せたことはほとんどない。『成瀬は天下を取りにいく』を読んでやはり彼のことを思い出したのは、僕らがやっていた馬鹿げたことも描きようによってはさわやかな青春小説のようになると思ったからかもしれない。
学校からの帰り道で海岸をゆっくり歩きながら、空の色の移り変わりや暮れゆく海岸線を毎日のように心を空っぽにして眺めていた。思い返せば高校時代の3年間はとても幸福な時間だった、なんの不安もなく憧れを追うことができた。例えばそれは、大学生になったら吉野朔実の『月下の一群』のような大学生活を送れるだろうか?とか、森脇真末味の『おんなのこ物語』に出てくるようなバンドを組めるだろうか?とか、そんなたわいもないことだけど、素直に夢を見ていた。不安定だった中学時代と違ったのは何か通じ合えると思えた友人たちがいたからだろうか、友人たちとそういうことを話したわけではないのだけれど。これは自分に向けて描かれている、と思った多くの漫画に出会った3年間だった。同じように、これは自分に向かって歌われていると思ったのがアズテック・カメラの『ハイ・ランド、ハード・レイン』でありペイル・ファウンテンズの『パシフィック・ストリート』とザ・スミスの『ザ・スミス』だった。この頃の自分が音楽や漫画から何を読み取っていたのか、いまならよくわかる。それは、自分を取り巻く世界について何も知らない、という不安を抱えた子供時代を抜け出すための最初の手がかりとなった。ここに描かれていることを信じていいんだというはっきりとしたメッセージとして僕は受け止めた。その後僕は大人になり、現実に事件や事故をおこし、人も自分も傷付けてしまったけれど、なぜかここに立ち返ってくる。そういうものを心のうちに持っているのは幸せなことだと思う。
この年になっても沖倉利律子の描いた世界に憧れていることは嫌ではない。漫画に描かれたような世界を生きることはなかったし、これからも絶対ないとわかっている、けれどあのまっすぐな世界に憧れる気持ちは消えないのはなぜなんだろう。読んでいるといつか自分にもそんな瞬間がやってくるとまた思ってしまう。そして性懲りも無く良さそうな学園漫画を探しては読む日々が続いている。人はそんなに変わらないということだろうか。ここ数年で良かったのは高松美咲の『スキップとローファー』と相田裕の『1518!』だった、なぜか生徒会に弱い。『成瀬は天下を取りにいく』と『成瀬は信じた道をいく』は飛び抜けて楽しかった。作者は続きを現在執筆中とのこと、今から読むのがとても楽しみだ。