夢をつかむ! 024_20240924
誰が子どもを教えるかという問題
どんな時でも淡々と続ける強さ
んだ、んだ。
noteを書けば、少しは心が落ち着くかもしれん。
どんなに気分が落ち込んでいても、書くんだ、うぉんのすけ。
ということで、今日は全然書く気分じゃあないが、とりあえずPCに向かってみた。
大きな悪いことと小さな悪いことが重なって、全てのものがネガティブに見えてくるという現象に苛まれている。
がーしかし、一旦書き始めると少しだけ平常心を取り戻せる気がしてくるのだから、noteはやっぱりすごいなと思う。
さて、今日はまた教育のことでも書こうとするか。
私が事業を始めようとしたとき、今は在宅でもできるからね、と言ってくれた人がいた。
要するにオンラインでつながれるという発想だ。
うぉんのすけのやりたいことを実現するのに、お客様は全国を相手にしたらいいんじゃないか、と言われた。
私はPC機器に弱い。よって、そもそもそういう難しいことはできそうもない。
いまだにホームページも自分で作れないのだから。
仕事をしていた時、ZOOMとかTEAMSでオンライン会議に何度も参加したので、雰囲気は分かる。
最近、メタバースにフリースクールを開いたという人もいるらしい。アバターになって授業を受ける生徒の姿、見てみたい。それだったら全国から生徒が集まるのか。
ビックリだ・・・世の中の動きに全然ついていけてない。
私は子どもと触れ合っていたいんだよな。
心が触れ合うのと同時に、やっぱり実際に手をつないでみたり、目を直接見て話したり、たまに唾が飛んできてきたねーなと言い合いながら、生身で触れあうことを大事にしたい。
それができないから・・・という意見もあるとは思うが、子どもの時に本当にそういう環境から逃げてしまっていいのだろうか、と思うこともある。
それに「個別最適な学び」という言葉をよく耳にするが、私はそれを肯定的にも捉えるし、否定的にも捉えている。
子どもの可能性を最初から否定しまうようで・・・誰が「最適」と決めるのか、という問題だ。
もっといえば、大人が決めてしまうのは違うような気がしていて、子どもは子どもの中にいて学ぶこともたくさんあると思う。いや、むしろ大人から学ぶことなんてほんのちょっとのことで、子どもどおしで学んでいくのだと思うのだ。そこに「最適な解」はどうやって生まれるんだろうか?
そういう風に考えれば、やはりマンツーマンや少数制というのは、子どもの可能性を閉ざしてしまうようで、もっと自由にもっと子どもどおしでわちゃわちゃやってくれる方がいいのかなと思う。
私はそういう環境づくりをしたいのかもしれない。
ほーらな、今日は調子が悪いから、ちゃんと結論を出せないじゃあないか。
何が言いたいのか、よくわからなくなってしまった。
結局、私は時代の波に乗れていないだけなのかもしれない。
メタバースも無理、個別最適な指導も無理。
子どもに頼る、不甲斐ない大人。
でも私は絶対に大人が教えるより子ども同士の方が大きな可能性を持っていると思っている。
その可能性を引き出すお手伝いができたらいいなと思っている。おわり。
<1年前の”種まき日記”>
インスタントフィクションが書きたくて、頭の中にあるが、400字にまとまらない。脳を少し休めた方がいいかもしれない。
<2年前の”つれづれ日記”>
先日、前職場に顔を出したら、この工事業者の社長さんが1年以上ぶりに来て、〇〇さんは?と聞いてきたらしい。久しぶりに会えると思ったのではないだろうか。「もう辞めました」と伝えるととても残念がっていたよ、と同僚が教えてくれた。私も会いたかったなぁ~
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