📕福沢諭吉.1899「新女大学(段落19/24)」時事新報. 翻訳&AI訳.
五人の娘の父🖋️福沢諭吉 - 遺作が諭吉&お金(妻、キン)逝去後🇯🇵禁書、、、に👨🎤👨🦳🧔♂️誰がした⁉️答えは"Reference"に
📸福澤記念館HPより↑
📸The title picture shows Fukuzawa Yukichi's five daughters - appeared on the homepage of "Fukuzawa Kinenkan" on October 20, 2020. - later disappeared as accessed on October 20, 2024
https://sanshokuki.tsushin.keio.ac.jp/viewer/?file=2023_12_02-14.pdf > . P5【抜粋】慶應義塾と明治政府の間で考え方が決定的に違う点が出てきます。それは「主権者は誰か」ということです。明治政府は、主権者は天皇だと考えます。一方、福澤や大隈重信は、あくまでも主権者は国民であり、国民一人人の独立、国民一人一人の人権、それを単位として、よい国をつくっていこうとしました。例えば・・・
【旧仮名遣い】 福澤諭吉 『新女大学』. 1899. 原文段落19 of 24
「優美な言葉を選んで語ろう」
一 女子が如何に教育せられて如何に書を読み如何に博学多才なるも、其気品高からずして仮初にも鄙陋不品行の風あらんには、淑女の本領は既に消滅したりと言う可し。我輩が茲ここに鄙陋不品行の風と記したるは、必ずしも其人が実際に婬醜の罪を犯したる其罪を咎むるのみに非ず、平生の言行野鄙にして礼儀上に忌む可きを知らず、動ややもすれば談笑の間にもあられぬ言葉を漏らして、当人よりも却て聞く者をして赤面せしむるが如き、都て不品行の敗徳として賤しむ可き所のものなり。例えば芸妓など言う賤しき女輩が衣裳を着飾り、酔客の座辺に狎なれて歌舞周旋しゅうせんする其中に、漫語放言、憚る所なきは、活溌なるが如く無邪気なるが如く、又事実に於て無邪気無辜むこなる者もあらんなれども、之を目して座中の婬婦と言わざるを得ず。芸妓の事は固より人外として姑しばらく之を擱おき、事柄は別なれども、上流社会に於ても知らずして自から誤るものあり。近来教育の進歩に随て言葉の数も増加し、在昔学者社会に限りて用いたる漢語が今は俗間普通の通語と為りしもの多き中にも、我輩の耳障みみざわりなるは子宮の文字なり。従前婦人病と言えば唯、漠然血の道とのみ称し、其事の詳つまびらかなるは唯医師の言を聞くのみにして、素人の間には曾て言う者もなく聞く者もなかりしに、近年は日常交際の談話に公然子宮の語を用いて憚る所なく、売薬の看板にさえ其文字を見るのみならず、甚しきは婦人の口より洩るゝなどの奇談も時としてはなきに非ず。唯仰天ぎょうてんす可きのみ。抑そもそも子宮の字は洋語の Uterus(ユーテルス)に当り、相互直訳の文字にして、西洋諸国に於ては医師社会に限りて之を用い、診察治療の必要に迫れば極内々に患者又は其家人に之を告ぐるのみ。医事に関する要談の外に、西洋国人の口よりユーテルスの語を聞かんと欲するも決して得べからず。況んや婦人の口よりするに於てをや。生命を賭しても発言せざる可し。然るに日本人は之を口外して平気なりと言う。当人の知らぬことゝは言いながら羞かしきことならずや。尚お此外にも今の世間に見苦しく聞き苦しきことは一にして足らず。畢竟婦人の罪とのみ言う可らず、社会の先達たる学者教育家の不深切と、政府の筋の無学不注意に由来することゝ知る可し。
《リンクあり→福澤諭吉.「女大学評論・新女大学」. (林望監修, 講談社学術文庫, 1899/2000)p.111》
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【標準日本語、敗戦後版】福澤諭吉 『新女大学』. 1899. 段落19 of 24.
「優美な言葉を選んで語ろう」
どんなに高学歴で、読書家で、知識が豊富で、才能のある女性であっても、上品さに欠け、下品で低俗な振る舞いを少しでも見せれば、その女性はすでに淑女とは言えない。ここでいう 「下品で低俗な振る舞い」とは、必ずしも実際の淫行だけを非難しているわけではない。 日常的な言動や礼儀、社会のタブーを無視する言動、不道徳で軽蔑に値する言葉、たとえば、非公式な場であっても口にしてはならない言葉を口走りがちな人がいる。つまり、話し手本人よりも、聞き手が赤面するような言動だ。
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