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自由と責任について

佐久穂でのリフレクティングプロセスの勉強会2日間を振り返って。

終始、「寝ていいですよ」「聞かなくていいですよ」「出て行って散歩してもいいですよ」「いつおトイレいってもいいですよ」等、徹底して「自由にしていい」が強調されていました。

過去に立命館大学院元教授イサク先生の「Open space technology」の研修で、「つまんないなと思ったら対話の輪から出て行ってもいいんですよ」と云われ「結構輪から出て行けないでしょう」と言われていたのを思い出しました。

徹底して自由と言われると、場に留まるのも離れるのも決断は純粋に自ら行うことになるので、自然と責任が問われるんだなあと思いました。

発言するのも自分の意志。発言しないのも自分の意志。

しかし、「長野の方の意見が聞きたい」と声が聞こえた時点で「あっ県外の私は、この場は発言しないでおこう(しなくてもよい)」という自分が内奥から湧き上がってくる。

同等にもっともらしい二つの命題が並びたつ状態をディレンマというそうですが、大戦時に対独戦争で兄が戦死し年老いた母がいる青年が、「母のもとに留まるべきか」それとも「自由フランス軍に身を投じてナチスと闘うべきか」とサルトルに問うたとき、

君は自由だ。選びたまえ、創りたまえ。

とサルトルは言ったという。

子供や、生徒や、部下、社員など周りの人に「責任」や「責任感」を持って貰いたいとか、感じて欲しいと願うなら、「自由」という事を考えてみなければならないと思いました。

何か示唆や指示されたりすると、責任や責任感は薄れてしまいそうです。

君は自由だ。選びたまえ、創りたまえ。

対話で人々の<あいだ>が開かれる事を願って。

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