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葛藤する自分も愛したい
人には、認めたくない自分があるそうです。
あるそう。と書くのは、最近心理の勉強をしていて、聞いたばかりだからです。
先生の教えてくださることを疑ってはいませんが、何せ“認めたくない自分”なので、こころは認めないように働くそうなのです。
フロイトの精神分析でいう防衛機制が働いて。
“認めたくない自分”を認める必要なんてあるのか?
なんて、それっぽい理由を考えついてみたり。※合理化
(あの人が嫌い!)と思っている自分を認めないために、(あの人が私を嫌いなんだ!)
と決めつけてしまったり。※投影
そんなことしていても、“認めたくない自分”は私の一部なので全く無いことにはできず、私には葛藤が生まれるのです。
心理を学んだことによって、私は自分に起こっている葛藤を、(何らかの防衛機制が働いているのだろう)と考えるようになりました。
対人支援者ならば、(この防衛機制をコントロールしなくちゃいけない!この経験にも何か学びがあるはず!)と気負うようになったのです。
そんな日々を過ごしてましたら、胸やけみたいになってしまいました。
消化が追いつかないのです。
自分のなかで噛み砕く時間が足りない。
あっぷあっぷしてしまいました。
噛み砕けない葛藤は残ったまま。
この葛藤をどうしてよいか分からず、揉んでみたり、投げてみたり、他者にかざしてみたりしました。
すると、ある人から、こう言われたんです。
「それもwakanaさんの一部なんじゃない?」
すると、じわっと、こころが安らいだのです。
この葛藤は、切り離したくなくても切り離せない自分の一部からでるもの。これも私の一部。
疎み嫌うのではなく、私のものとして受け入れることができたらいいな。
(できるなら愛するところまで…)
いやいや、そこまでは難しいかな。また頑張ろうとしている。
そんな風に感じる毎日です。
最後に。
本音を聞いてもらえるサービスanoneを紹介いたします。
今日のお話はanoneを利用して湧いた感情です。