知識の活用 「講釈の誤り」

昨夜は本当に疲れ切っていたのだろうか、ご飯を食べた後はスマホをいじることすらだるくて、お風呂にはいって9時には寝てしまった。ここ最近寝ることが損だと感じるときもあるくらい睡眠をおろそかにした生活を送っていたため、とうとう体が耐え切れなくなってしまったのかもしれない。なんにせよ、今日の朝の目覚めは本当に清々しく、感動すら覚えた。まあ、朝といっても3時くらいだったのだが。このくらいの時間に起きられるならば、朝型の生活に移行してもいいかもしれないと思った。

せっかくの清々しい朝である。何か有意義に過ごしたいと思い、まず真っ先に本を読みたいと思ったのだが、やるべき課題やテスト勉強の存在を思い出してしまった。昨日は夜の時間何もやっていないので、当然なのだが。そんなわけでひたすら勉強をしていたが、やはりよく寝ると頭がすっきりとしていい。僕の予想をはるかに上回るペースで進めることができた。課題やテスト勉強に追われているとはいえ、朝からこんな満足間を味わえるのなら、総合的に考えて幸せといえるのではないか、という考えが頭をよぎった。

僕は徹夜したときなどは、外が明るくなってきたら決まって散歩をする。そうすると頭のだるさや目の疲れが幾分か取れて、その日一日を乗り切れそうに思えるのだ。今日は早起きしての散歩なので、もしかしたらいつもより発見の多い、清々しい散歩になるのではないか、とわくわくした。

結論から言うと、そんなに変わらなかった、というのが本当だ。いつもより体が軽い、何か今まで気づかなかったものに気づけた、など、なんらかの美点を探したのだが、際立ったものは見つからなかった。本当に変わらなかったのだろうか、それとも記憶が正確に保持されておらず、違いが認識できないのだろうか。

ふと今読んでいる「ファスト&スロー」の中に、

講釈の誤り

という言葉があったのを思い出した。意味は、

過去についての誤ったストーリが私たちの世界観や将来予測を形成する

と説明されていた。要は、過去の出来事はそのままの状態で記憶に残ることは難しく、何らかの脚色が入り込んでしまう、ということだ。

僕の朝の散歩の認識にも脚色が入り込んでいる可能性は大いにあると思う。僕は今までの散歩の中で感動したこと、考えたことをnoteにも何回か投稿しているが、ここで着目されているのはあくまで印象深かった点のみである。過去の散歩のときの体の重さとか、目の具合といった情報は思い出せない。そうなると、僕の中にある散歩のイメージはよいイメージだけによって構成されていると考えることができる。今日の散歩が本当は今までのどれよりも素晴らしいものだったとしても、美化された過去の記憶を評価対象にすると、あまり差を感じなくても仕方がないと思う。そう考えると、本来受け取れた感動が半減したような気持ちになって、少し残念に感じる。

だが、こうやって読書から得た情報を活用できたことは素晴らしい体験だと思う。読書から得た知識が、自らのものとして、道具として使えているという認識が、自分の読書の質は高いのかもしれないという自信を与えてくれた気がする。



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