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『本心』再読。
平野さんの作品は好きだ。「個人」に対する「分人」という、「自分自身」の「不確かな、確かさ」みたいなものが腑に落ちてからずっと好きだ。
久しぶりに再読して、「本心」について考えたことがあったので、書いてみます。
本心、とは?
それ、本心?
本心から言ってる?
ああ、そうだ、本心だ。
みたいな使い方だろうか、「本心」という言葉。けれど、この『本心』を読むと、そうして使われている「本心」が、およそ「本心」とはかけ離れていふことに思い至る。
本心なの?と、尋ねられた瞬間に、尋ねられた方は、「本心だ」と答えた方が良いのか、「いや、そうじゃない」と答えた方がいいのか、もう逡巡する。本心だけど、本心って言わない方が良いのでは?とか、本心ちゃうけど本心ってことにしとこう、とか。
そもそも、思わず口を突いて出た言葉だから本心って訳でもない。そんなこと言うつもりなかったのに!ということだってある。
石川朔也は、死んだ母親から、自分の出生にまつわる秘密と、それに関する本心を、聞きたかった。「母親」としての体面を取り繕った、それらしい話ではなく、本当のことを聞きたかった。
けれど、母が残した記録と自分の記憶とを元に生成されたAIの母親は、革新に迫るとはぐらかすのだった。学習のために参照するデータには、はぐらかす以上の最適解がないからだ。
けれど、それこそお母さんの「本心」であるとも言える。朔也が知りたいのは、自分が「納得したい話」であり、お母さんの中の本心ではない。そして、どんな事実なら納得できるかは、朔也の状態により変わるだろう。衝撃的な事実を知って打ちのめされ、自暴自棄になりたい時もあれば、悲劇的なストーリーの中にも一筋の光のような救いを見出し、未来に向けて歩き出したい時もあるだろう。
自分自身の「本心」すら、わからない。
本当はこうしたいのに、できない。
というのは、本当はやりたくないのに、やりたくないと思っている自分を認めたくなくて、本当はやりたいのに、と思い込もうとしているだけかもしれない。
こんがらがって来た。
それもこれも、ぜんぶ自分だよ、というのが「分人」という概念か。
うーん、もう一度読むかー。
2025年の100冊 003/100