年末の30日に熱が出てインフルでもコロナでもないのになかなか回復せず2週間引きこもってからの復活の話。
9日の仕事始め以降もずっとテレワークで外出することなく2週間過ぎた。そして今日は、神戸ハーバランドにあるホールで柳家三三さんの新春落語会。行こうかどうしようかギリギリまで悩む。出かける準備の面倒くささ、身体もしんどさ、外に出る億劫さと、三三さんの独演会を天秤に掛け、三三さんが勝利。
やっと外に出た。
予想以上に体力が落ちてて、歩いてるだけでコケそうになるし、しんどい。視力というか、見えたものが何なのか認識する能力が落ちてるみたいで、動いてるものは、目に入っても一瞬で何なのかわからず戸惑う。
太陽が眩しすぎる。風が吹くとよろける。人の喋り声やお店から流れてくる周囲音がうるさい。頭がガンガンする。
人って、たった2週間引きこもるだけで、こんなに刺激に対する反応力落ちるんだな、もう帰りたい、と思いながら、落語会の会場を目指してハーバーランドの中を歩くうちに、海へ出た。
あー、気持ちいい、と久しぶりに思った。ふと周りを見ると、ベンチに腰掛けたカップルがキスしてた。
少し離れたところでは、ギターを弾いてる男の子。
一輪車でクルクルまわる女の子も。
おもろいなぁ。
しばらく眺めて満足したので神戸新聞ビルの松方ホールへ。
前座は二つ目の春風亭朝枝さん(ものすごい腰の曲がった歩き方なのでご年配の大師匠かと思った)。
お話は「転失気(てんしき)」。知ったかぶりをした和尚さんが小僧に担がれて恥をかく、落語では定番の面白話。
三三さんは「五目講釈」。まくらは正月1日朝イチの浅草演芸場が満席だったけどいつもは演者とお客が1対1の日もあるんだなんていうお話で、もう最高に楽しい。三三さんの声聞いてるだけで嬉しい。席が真正面なので目が合ってて私を見て話してくれてる錯覚が続いてずっと幸せ。
「五目講釈」には、「自分は玄人跣だ」と豪語する居候の素人が講釈をする中演目があって、こういうのは三三さんめちゃくちゃうまくて惚れ惚れしちゃう。赤穂浪士から始まるけれどいつのまにか寿限無になり清水の次郎長が出て来て水戸光圀、桜田門に月光仮面、サザエさんにドラえもん、那須与一と何でもかんでも出てくる。噛まずに流暢に流れるように、でも抑揚も表情も豊かで人間味があって、この中演目が終わると大拍手の盛り上がりだった。もう大好き。
マクラでは、元日に起きた地震の話にも触れた。ロビーでは募金も。そして、この神戸の街で地震が起きた年には、師匠の小三治さんの鞄持ちで、どこかは忘れたが、とある学校の体育館で落語会をしたことを話してくれた。
あんな途方に暮れるような災害に対して、落語みたいに不要なものはない、ないけれど、みんながみんな落ち込むのではなくて、達者な者は元気に暮らして落語みたいなものでも聞いて笑って過ごすのもいいんじゃないか、と。
熱を出して無気力に寝込んでいた正月1日に地震が起きて呆然としてからずっと、私はやる気がまったく失われてしまって、何をやっても無駄だと思ってしまった。無力感をまとって無気力に過ごしてきた私に、この三三さんの言葉は沁みた。会場全体もなんとなくしんみり。みんな、つらい気持ちだったんだろうな。
中入り後は三味線とお唄。正月らしく華やかだった。
締めのお話は、辰年にちなんだ「夕立屋」という小話(辰年にちなんだお話ということで、そうか今年は扇辰さんの落語会に多目に行かなくては、と決意した)と、長屋の店子を引き連れてケチな大家が花見に上野の山へ行く「長屋の花見」。出発前から「酒は三升用意した、酒菜は卵焼きに蒲鉾だ」というのは嘘で、「酒は実は番茶を煮出して薄めたもので、卵焼きはたくあん、蒲鉾はこうこだ」と白状するも、「なんだよそれ」とぶつくさ文句を言いながらゾロゾロとついていく店子連中が間抜けでカワイイ。
三席とも女将さんや娘さんなど女性の出番のない演目だったので、妙に色艶のある三三さんを見れなかったのは残念だったけど、3月は繁昌亭に来てくれるようなので期待しておこう。
終演後、周りの席の人たちが口々に「いやー、楽しかった、めちゃくちゃ面白かった」と言っていて、嬉しくなる。次も満席で迎えましょう、みなさん。
ホールを出ると、風は強いけどまだ青空が見える陽気なので、ハーバランドから三宮まで徒歩で戻ることにした。
この辺りを歩くのは何年ぶりだろう。知ってるお店を探して歩くけどよく通った卵焼きの美味しい定食屋さんも、店長が手品を見せてくれる中華屋さんも、大人ぶって通った細長いカウンターのバーも、ぜんぶ、見つけられなかった。もうやめてしまったのか、様変わりしていて見つけられなかったのかはわからないけど、代わりに見たことのない新しいお店がモコモコと生まれている。街も生き物だなぁなどと考えながら歩く。
ふと、三三さんの「五目講釈」で中演目でやる講談は、演るたびにちょっとずつ変わってるのかもしれないな、と想像する。一言一句暗記したことを間違うことなくただ喋ってるんではなく、暗記はしてるものの、その時の調子や会場の具合で、口から勝手にいろいろ出てくるんじゃないかな、と。
落語ってそういう、適当というか、その時々で出来上がってる感じがして、演る人、時、場所、見てる人たちとの相互関係によって少しずつ形を変えながら生き続けてるんじゃないかなあ。
帰り道にたっぷり30分ほど街を歩いたせいか、行きの時のように入ってくる刺激を異物としてしんどく感じることもなく、目にするもの耳に入る音、すれ違う人の服装や髪型や声、話、笑い方、くっつき方を愛おしく感じられるようになって家に着くことができた。ついでにヴィッセル優勝バナーも実物を拝むことができ、満足。
引きこもって過ごした2週間は何も生産的に生きられなかった。けれど、この2週間も私の一部になって、何かに作用していくんだろうなと捉え直すことができた。きっと無駄ではないんでしょう。三三さんに感謝だな!ありがとう!
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