想像力を総動員して楽しむ『サンショウウオの四十九日』
結合双生児。双子だが身体が結合している状態。人格も思考も、好みも性格も異なる別々の人物ながら、身体はひとつにつながっている。名前もあり、裁判を経て出生届も受理されている。濱崎瞬と濱崎杏。
そんな、二人の意識と思考の内面を通じて、二人の叔父(この人も「胎児内胎児」として生まれた存在で驚きの現象なのだが説明が長くなるので省略)の死から四十九日の法要を行うまでの間のお話である。
芥川賞受賞作品らしく、なぜその状態で生まれてきたかとか、そうした身体で生きていくことがどのようなことかとかが明かされる物語ではない。瞬と杏それぞれが、ひとつの''容れ物''を共有しながら、どのように自身の要求を実行しているか、その意識の中の状態を、その主体者が語っていくことで話は進む。そのため語り手は常に一人称で、最初のうちは、瞬なのか杏なのか、よくわからなかったのだが、途中から、「私」が杏で、「わたし」が瞬だと理解できた。気づいてからは、突然主体者が「わたし」から「私」に切り替わることに違和感も覚えたが、こうした突然の主体者の交替が、彼女たちの''容れ物''の内部でも起こっているかもしれない、と気づいてからは、二人の生きている人生の不思議さを少しだけ想像できて、面白くなった。
自分の中に二人いると想像してみる
いま、「私」は、こうしてnoteを書いている。けれど、この本を読んでいないもうひとりの「わたし」は、退屈を覚えている。早く意識の主導権を握り、書くことを中断させ、眠りにつきたいが、強引に自分が主体になろうとすると、後々になって仕返しをされたり、肝心な時に協力してもらえないことを経験から学んでいる。一方「私」のほうも、「わたし」が退屈していることや、彼女が主体となって制御している体の部分が眠りたがっていることは感じており、そろそろnoteを書くことを中断し、ベッドに入る方が良い、と自制的に考えている。
こんな感じだろうか。
幼い頃は、おそらく衝突もあったろうと思う。まさに兄弟姉妹喧嘩のごとく、利己的に、独占的に、身体を我が物にしようと躍起になったに違いない。大人になるにつれて、お互いに折り合いをつけていったのだろう。
近しい感情や葛藤
しかし、こうして考えると、ひとりの人格しか持っていない自分たちでさえも、内面では別々の思考や主張が葛藤することはある。自分で行なった選択ですらも、不本意に感じながら、いやいや実行することもある。こういう状態などは、瞬と杏が互いに譲りながら身体を共同管理している感覚に、似ているのかもしれない。
そんなふうに、瞬と杏の思考の入れ替わりを想像しながら読んでいくことが、とても面白い作品だった。
2025年の100冊 006/100