生き残されし彼女たちの顛末 第2部 第30章 長老たち
鶴雲楼は第1地区の東側、南北西一路から少し入ったところにある、上海でも一、二を争う高級料理店である。
店内一番奥の、床は深緑色の絨毯敷きで、天井にシャンデリア型の照明が吊るされた、30平方メートルほどの部屋。定刻20分くらい前から一人、また一人と、周光立が声をかけた9人の長老たちが集まってきた。到着している者と握手をすると、10名から15名くらいが座れる円卓に10脚並べられた背の高い椅子の、自分に相応しいと思われる席に着座した。ある者は、後から自分より格上の者が現れると、席を譲ることもあった。10時少し前ころ、料理店の従業員が蓋のついたディーカップを運んで来て、席ごとに置いていった。
9月8日日曜日は、雲の合間から薄日の差す天気。湿り気が収まり、かなり凌ぎ易い。
10時少し過ぎ、出迎えをしていた周光立が9人全員そろったことを確認し、下座の壁際に控えていたダイチとヒカリに合図する。高儷は周光来に従って屋敷からこちらに向かっているところ。ダイチがPITを操作すると、上座側とその斜め向かいの2ヵ所、合わせて3ヵ所にセッティングされたエア・ディスプレイに周光来の顔が現れた。周光来の自宅で2日前に収録されたビデオメッセージが、長老たちの前に映し出される。静かに見入る長老たち。ときどき頷くように顎を上下させる者もいる。
ビデオが残り4分の1ほどとなったころ、高儷と秘書の劉静を伴って周光来が到着した。廊下に置かれた椅子に腰かけて、入室のタイミングを待つ周光来。音声が終わり、「ふう」と9人が漏らす溜息のようなものが聞こえたとき、ダイチが扉を開けて周光来に言った。
[周名誉総裁閣下、どうぞお入り下さい]
秘書の劉静の介添えで扉を通り抜け、上座に一つ空いた背の高い椅子へと向かう。周光来が着席したのを確認すると、劉静は、下座に向かい、用意された椅子に座った周光立、ダイチ、ヒカリ、高儷の横に並んで、しゃんと背筋を伸ばして立つ。高儷が隣にひとつ空いた席に座るように手振りで招いたが、劉静はこれも手振りで断る。
9人の顔に一通り目を向けると周光来が会話の口火を切る。
[この面々が一堂に会するのは何年振りかのう]
[おそらく5年は経っていますか]と周光来から向かって右、一人置いて二つめの席に座る60代半ばらしき男性が答える。かつて上海総書記と副総書記を通算25年務めた王本山(ワン・ベンシャン)である。
今日集まった9人のうち、5人は行政官として総書記や副総書記を永く務めた者、4人は専らビジネス界のリーダーとして活躍した者で、いまはみな一線を退いている。行政官出身のうち3人とビジネス界出身の2人が女性である。
[名誉総裁閣下は息災であられましたか]と向かって左、隣の席に座る60代後半の女性が聞く。キャラバン・コネクションのもたらした物品も扱っている、上海流通最大手の企業集団のトップを20年勤めた、元ビジネスパーソンの黄美帆(ファン・メイファン)。チワン族の血が混じっているという。
[おいおい、堅苦しい肩書とかは今日は無しでいこうや]と微笑みながら周光来が言う。
[そうそう、周光立。上海真元銀行の唐総裁が、11日の午前中なら2時間空けてくれるとのことだ。忘れんうちに言っておく]
[ありがとうございます。あとで正式のアポイントメントをとります]と周光立。
[ところで周光立の話では、今日は「星」のことについて、折り入ってお話があるとのことでしたが]と、一番下座に座る60代初の女性が聞く。10年前まで20年間上海副総書記を務めたのち、5年前まで上海真元銀行の監事であった胡瑞英(フー・ルェイイン)である。
[私から話したいことは、先ほど観てもらったビデオがすべてだ。なので、ビデオの中で言った通り、若い者たちの話を聞いてもらいたい。よいかな周光立]
[かしこまりました、名誉総裁。それではお集まりいただいた皆様に、私どもから「星」の状況についてと、考えております対策についてご説明申し上げます。まず最初に、武漢副書記の楊大地から]
[おう、楊守の孫の大地だな。すっかり立派になって]と王本山。
[ありがとうございます。私からは「星」の状況と私どもが考えております対策について、現時点での最新の情報も踏まえてご説明します]…
[みな、ご苦労だった]
ダイチ、ヒカリ、高儷、周光立の順で進められた話が終わると、周光来が労った。
[ここからはしばらく、我々のみで話をしたい。すまないが、4人は席を外してくれ]
[かしこまりました。名誉総裁]と周光立が言い、4人は扉を抜けて廊下に出た。
周光立は奥の部屋の他に、4人が使えるように4名用のテーブルを一つ押さえていた。席に着くと、従業員が冷えた茶を持ってきた。お歴々の前で緊張しながら話をしたヒカリと高儷は喉がカラカラで、出された冷茶を一気に飲み干した。従業員が次の一杯を運んでくれる。
「大丈夫だったかな?」とヒカリ。
[誠意は伝わったと思う。爺さんが、どのように話を持って行ってくれるかだ]と周光立。
鶴雲楼の料理店としての営業開始は11時。4人の座るテーブルからも客が入り始めているのが見てとれた。注文の品の調理が始まったのだろう。厨房のほうから漂ってくるおいしそうな匂いが、さらに強くなってきた。
周光立が上海真元銀行総裁の秘書に連絡し、11日9時のアポイントメントを確認した。
20分ほど経っただろうか、秘書の劉静が4人のところへやってきた。
[名誉総裁閣下がお呼びです]
ダイチ、ヒカリ、高儷が立ち上がって劉静についていく。1テンポ間をおいて周光立がおもむろに立ち上がり、少し早足で先を行く4人についていく。
劉静が扉を開け4人を招じ入れる。自分は最後に入室し、扉の横のところで再び直立不動の姿勢になる。
[みなで話し合った]と周光来が口を開く。
[ここはお前たちの言うことに従って、連邦と和解し、シャンハイ・レフュージに総員避難するという方策に同意する、ということで、みなの意見がまとまった]
うなずく長老たち。4人の顔に安堵の表情が広がる。
[私から言っておきたいことがあるが、よろしいかな]と元総書記の王本山。
[お願いします]と周光立。
[きみたちも知っての通り、連邦との間ではいろいろとあった。私も含めてすんなりとは納得しがたい者がいる]
[お気持ち、察します]
[連邦の力を借りず、ここまでしっかりとした共同体を作り、営んできたという矜持もある]
[仰る通りです]
[そこで、連邦と交渉するにあたっては、決して卑屈になったり、安易な妥協をすることはないようにしてもらいたい]
[私も、周光来の孫として、皆様の誇りを受け継いでいる者の一人と思っております]と胸を張って言う周光立。
[レフュージに避難したのち、統治組織は基本的に自経団の枠組みをもってするつもりでおります。また金融システムについては上海真元銀行によるシステムを、できる限りそのまま持ち込みたいと考えております]
[そうであればよい。期待しておるぞ]と王本山。
[上海真元銀行が続くのであれば、よろしいかと思います」と元監事の胡瑞英。
元ビジネスパーソンの黄美帆が口を開いた。
[私からもよろしいですか]
[お聞かせ下さい]と周光立。
[私がお願いしたいのは、キャラバン・コネクションの者たちのことです]と落ち着いた口調で黄美帆が続ける。
[彼らは「行政の介入」ということをひどく嫌います。あなた方のプランに従うよう、私が影響力を行使して説得することもできるでしょう。が、そのようにすると、そのことを「行政からの介入があった」と受け取る者が、出て来るに違いありません。それでは将来に禍根を残すことになるのではないか、と案じられます]
[そうすると…]と周光立。
[彼らはビジネスの世界に生きる者。だから「ビジネスにはビジネス」です。なにか彼らにとってビジネスとして「うまみ」のある仕組みを拵えて、それをもって説得してみてはいただけないでしょうか]
[なるほど、「ビジネスにはビジネス」ですね]と声のトーンがあがる周光立。
[楊大地、武漢といえば…]と黄美帆がダイチに話しかける。
[武上(ウーシャン)物流の総経理はご存じですよね]
[張子涵でしょうか。私の幼馴染みです]
[彼女は、キャラバン・コネクションの連中の間でも評判がいいと聞いています。交渉役には適任かもしれませんね]
(へえ、張子涵って上海でも有名なんだ)と感心するヒカリ。
[これぐらいでよいかの、周光立]と周光来。
[ありがとうございます。皆様にご賛同いただき力強く感じております。上海、武漢、重慶、成都の民衆をマオの脅威から救うべく、一層努力して参ります。今後ともご支援下さいますよう、お願いいたします]
長老たちから拍手が起こる。周光立が深々とお辞儀をし、ダイチ、ヒカリ、高儷が続く。劉静は、宴の支度を始めるよう従業員に告げに行くのだろうか、扉から出て行った。
拍手が終わって、顔を上げた周光立が言う。
[それでは、私たちはこれで失礼…]
[待て待て、折角だから我々と食事を一緒にしていきなさい]
劉静に続いて従業員が追加の椅子を持って入ってきた。
[4脚ですよ]5脚運ばれてきたのを見て劉静が言う。
「いや、5脚でよい。今日はお前も加わりなさい]と周光来。
[えっ? そのような、恐れ多いこと…]
[なにを言っておる。お前がそれでは、若い者たちがますます居づらくなるではないか]
[そうですよ。劉静。私たちもあなたと久し振りに会ったのだから、ぜひ一緒にお食事をしていただきたいわ]と胡瑞英。
[私からもお願いしますわ]と黄美帆。
[かしこまりました。それでは、ご相伴の栄に浴させていただきます]
[さて周光立。これでお前たちが加わらない理由はなくなったな]
[ただ、私はこのあと運転が…]
[劉静、あとで屋敷から運転できるものを一人、寄越してやってくれ]
[お爺さま。ありがとうございます。それでは心行くまで楽しませていただきます]
追加の5脚は長老たち2人ごとの間に置かれた。すかさず劉静が胡瑞英のとなり、一番下座にあたる席に着く。
[お前たちは好きな席に着きなさい]と周光来は4人に向かって言う。しばしお互いに見合って目配せしたのち、男性2人が下座側、女性2人が上座側に向かった。ヒカリは周光来と黄美帆の間の席についた。
干杯(乾杯)用の白酒のグラスを15個、従業員が運んできてそれぞれの席に置いた。
[古風だが、今日はこれで始めようと思う]と周光来。
[音頭は王本山にお願いしよう]
[では]と王本山はグラスを目の高さに持ち上げ、一同みな同じ格好になったことを確認すると言った。
[上海、武漢、重慶、成都の民の安全を祈願して、干杯!]
[カンペイ]の唱和とともに、みながグラスの白酒を一気に飲み干す。
つられて飲み干したヒカリが「ゲホ、ゲホ」と咳き込む。
[ははは。シカリ、無理せんでもよいぞ。わしらも年だから、今日はみな自分の好きなものを好きなペースで飲むこととしよう]と周光来。
ほっとするヒカリ。前菜が運ばれてきた。
周光来やダイチはもっぱら黄酒、周光立やヒカリはもっぱらビール、そして酒が強い高儷は白酒をおかわりした。次々に運び込まれる盛り沢山の料理とともに、宴は和やかに進んだ。
長老たちの興味を引いたのは、ヒカリや高儷が話すネオ・トウキョウやネオ・シャンハイの話だった。
[そんなに自動化して、ロボットがいろいろなことをやるのだったが、ネオ・シャンハイに避難した者の多くが、仕事を失ってしまうのではないか?]と王本山。
[私もそのことを考えておりました。避難して当初はいいとして、そこから日常の生活を、社会を再構築していくにあたって、真剣に考えなければならないテーマです]とダイチ。
[私はこう考えます。レフュージでの私たちのアプローチは「ロボットにできることはロボットに」でした。それを「人間にできることは人間に」というアプローチに変えればいいのではないですか]相当飲んでいるにもかかわらず、しっかりとした口調で高儷が言う。
[さすがは高儷姉さん、いいこと言うねえ]と、かなり酔いの回った周光立。
デザートが出て、宴も終わりに近くなったころ、そもそも多数の住民をどうやってネオ・シャンハイに運び込むか、という話になった。
[私の会社やキャラバン・コネクションの力を、上手く使ってやって下さい]黄美帆が言う。
[「ビジネスにはビジネス」…ですねぇ]と少し呂律の怪しくなった周光立。
[そう、けれど彼らにも「運ぶ」ということについての矜持がありますから、それを上手く引き出してやって下さいね]
[頭を悩ませているのは、移動経費をどのように捻出するか、ということです。私の武漢、さらに奥の重慶などから人を運ぶとなると、相当の経費がかかりますが、それを賄う財政的基盤が、恥ずかしながら甚だ貧弱なもので…]とダイチ。
[自経団の伝統に従えば、自助で、ということでしょうが、非常時ですからね]と胡瑞英。
[あなた方は上海真元銀行の総裁には会いに行かれるのですね]
[はい、その予定です]とダイチ。
[周名誉総裁。私から唐総裁にひとこと言っておきましょうか]
[そうだな。任せてもよいか、胡瑞英]と周光来。
14時を過ぎた頃、従業員が来て王本山の迎えが来たことを告げた。周光来の希望で、全員で写真を撮ることにした。劉静がPITをもって撮影役に回ろうとするところを周光来が制し、従業員に自分のPITを渡して、劉静も含めた15人全員での集合写真を撮った。撮影が終わると王本山は、周光来を筆頭にその場の者と固く握手をしながら「再見」と声をかけ合い、帰っていった。その後も従業員が一人、また一人と迎えが来たことを告げにきた。名前を呼ばれたものは、王本山と同様に残った者と握手をし、帰っていった。若い4人に対してはみな一様に固く手を握り。「期待してるよ」と声をかける者もあった。
14時半ころ、部屋に残ったのは周光来、劉静と4人だけとなった。劉静がPITで屋敷に連絡し、迎えを寄越すように指図した。
[本日は、本当にありがとうございました、周名誉総裁閣下]と、酔っ払って船を漕ぎかけている周光立に代わって、ダイチが挨拶する。
[なによりも、お前たちの誠意が伝わったのだと思う。まあ、レフュージから来たという娘のような女性たちから懇願されて、イヤとは言えなかったのかもしれんなあ]と、ヒカリと高儷に向かって微笑みかける周光来。
迎えが来たことを従業員が告げに来た。到着した車に周光来と劉静が乗り、一足先に屋敷へと向かった。
周光立が運転してきたエアカーの運転席に、劉静が呼び寄せたドライバーが座り、助手席に大柄な周光立、後部座席に運転席側からダイチ、ヒカリ、高儷の順に座った。
[第18支団の駐車場までよろしく]と、ドライバーにダイチが言う。
周光立は助手席で船を漕いでいる。
(つづく)