星座の先のエピローグ ~生き残されし彼女たちの顛末 第6部~ 第93章 彼女の、その長い指
コンクールの会場には、ボクたちの居住区から片道2時間かかる。ボクは、本選の結果発表に何とか間に合う時刻に、会場に入った。7人のファイナリストが並んだステージ。 客席の後ろのほうに立って結果発表を見守った。
7位から4位まで、彼女以外の名前が呼ばれた…トップ3確定だ!
続いて第3位はプロとして活動している演奏家。
そして第2位がアカデミーの音楽専攻の学生…
えっ?!
【発表します。第二回火星音楽コンクール ピアノ部門の第1位は…】
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彼女の、その長い指に最初に触れたのは、今から16年前、ボクが生まれ育ったネオ・トウキョウから月行きのシャトル便に搭乗したときだった。
2290年6月に起こる恒星間天体「マオ」のインパクトによって、地球は居住不能の地となることが確実となった。第四次世界大戦を経て約1億まで人口が減り、地球上に30ヵ所ある、レフュージという大型シェルターに身を寄せていた地球居住民。その中から、火星へ移住する約500万人が選ばれ、残りの約9500万人にはインパクトの1年前までに順次「ケア」(安楽死処置)が施されることが、月に本部を置く国際連邦が行った地球居住民による住民投票を経て、決められた。
火星への移住者は、原則として無作為抽出の方法で選ばれた。ボクの家族の中で、火星移住者に選ばれたのはボクひとりだった
インパクトまであと3年となった2287年の7月、8歳の誕生日の翌日だった。ボクは、1ヵ月後に「ケア」されるパパと、最後まで地球に残って2年後に「ケア」されるママとさよならをして、生まれ故郷のレフュージであるネオ・トウキョウから火星へと向かうべく、月行きのシャトル便に乗り込んだ。
地球から月に向かう放物線軌道に乗るために、宇宙船は時速にして4万km以上にまで加速されなければならない。だから月へのシャトル便であるスペースプレインのエンジンは、離陸時には物凄い出力で噴射する。
8歳になったばかりのボクが、泣き出しそうになるのを必死にこらえながら、シャトル便に搭乗して指定された席に着いたとき、ボクと同い年か一つ年下くらいだろうか、小柄な女の子がボクの右隣の席に座っていた。彼女も、ボクと同じように家族とさよならしてきたのだろう。悲しさ、つらさ、不安…いろんなマイナスの感情がごちゃまぜになって、およそ表情というものが失せた彼女の顔。
アームレストに乗せた彼女の腕の震えが止まらなかった。加速するためエンジンがさらに出力を上げ、その音や振動が伝わってくるにつれて、彼女の腕の震えはますます大きくなった。そんな彼女を見ていると、自分の悲しさや不安は脇に置いて、「何とかしてあげたい」という気持ちが湧いてきた。
ボクは右手をアームレストに動かして、彼女の左手に触れた。彼女の手が一瞬ぴくり、と反応する。
びっくりするくらい長い彼女の指。
ボクは、彼女の左手を包むようにボクの右手をその上に乗せた。しばらくすると彼女は、左手を裏返してボクの右手に指を絡めてきた。二人はしっかりと手を握った。すると、彼女の腕の震えが止まった。
それからというもの、彼女は握った手を離そうとしなかった。トイレに行くとき、着替えをするとき、両親にMATESを送るときは、さすがに離したけれど、それ以外はずっと握りっぱなしだった。食事のとき左手で食べなければならなくて、右利きのボクはちょっと難儀した。
彼女はずっと無言だった。ボクも仕方なく、ほとんど喋らずに過ごした。
スペースプレインでそうして2日を過ごした後、月の軌道上で火星行きの船に乗り換えるときも、ずっと手をつないだままだった。キャビンクルーの人が「あら、仲良しさんですこと」と微笑んで、客室の隣同士の席に案内してくれた。
後続のシャトル便からの乗り換えのため、ボクたちは月の軌道上の船内で、4日ほど待った。
火星行きの船は、正式には「自力航行型居住モジュール」と呼ばれ、火星に着くとそのまま火星居住区の一部となるように設計されていた。
月を出発してしばらくした頃、ボクは「探検に行こう」と言って、彼女の手を引いて客席を離れた。いずれボクたち誰かの部屋になる、個室や家族室が両側に並ぶ廊下を進んだ。
突き当たりにサロンがあった。床に固定されたソファーや本棚、大型モニター、観葉植物などの中に、ピアノがあった。グランドピアノで、これも床にしっかりと固定されている。
彼女は握っていたボクの右手を離すと、ピアノに向かい、よじ登るようにしてチェアに腰掛けた。ピアノの蓋を開けると、両手の指をピアノの鍵盤の左側のほうに置いた。
ハ短調の和音が鳴り響き、彼女の長い指が奏でる音の世界が始まった。
サロンからは地球が大きく見えていて、それを眺めに来ている人が何人もいた。しばらくすると地球目当てに来ていた人たちが、ピアノのまわりに集まって来た。
彼女は3曲弾いた(その頃のボクは、それを「楽章」というのだと知らなかった)。
1曲目。ハ短調の和音でゆっくりと厳かに始まる。やがて憂いをたたえた軽やかな短調のメロディがあらわれ、束の間明るい長調に変わるメロディを伴って繰り返す、ゆっくりと厳かなパートが挟まり、軽やかな、短調のままのメロディが続き、再びゆっくりと厳かなパートを経て、みじかく短調のメロディがあらわれ、叩きつけるような和音で終わる。
2曲目。甘く、深く、懐かしいような、ゆったりとしたメロディが何度か形を変えて繰り返しあらわれ、その合間に喜怒哀楽の感情の動きを感じさせるいくつかのメロディがあらわれる。
3曲目。速いテンポの短調のメロディが静かに始まり徐々に強くなって、やがて何度も長調のメロディに変わるのだけれど、そのたびに否定するように短調に戻り、最後にすべての長調のメロディを一瞬のうちに否定するようなハ短調のメロディと和音で終わる。
このベートーベンのピアノソナタを、ボクはこのあと何度も聴くことになる。その中には、練習を重ねてみるみる上達し、十代半ばで火星のトップピアニストのひとりとなる、彼女による数々の演奏も含まれる。
けれどボクが、今でも一番愛おしく思い出すのは、このときの彼女の演奏だ。ミスは多いし、足が届かないからペダルも使っていないけれど、彼女のありったけの気持ちがこめられた演奏の、一音一音に至るまで思い出すことができる。
弾き終わると、周囲から拍手が起こった。最初はまばらに、徐々に拍手が加わり、やがて大きな拍手の波となった。その場のほとんどの人たちはボクたちと同じように、つらく悲しいさよならをしてきたのだろう。涙ぐんでいる人もいた。
パパより20歳くらい年上だろうか、制服に身を包んだ男の人が、拍手をしながら近寄ってきた。
【ブラボー!「悲愴」の見事な演奏をここで聴けるとは。しかもこんな小さなお嬢さんが。いや、たいしたものだ】
そしてボクのイヤフォンの通訳機能が作動しているのを確認して、ボクに言った。
【私は、船長のリチャードソンだ。君の名前は?】
「オガワ・マモルです」
【マモルくん。航行中、もし君や妹さんに困ったことや助けて欲しいことがあったら、いつでも船長室に相談に来なさい】
そう言うと船長さんは、ボクたちが来たほうとは反対側の廊下へと歩いて行った。
チェアから下りてきた「妹さん」に聞いた。
「『ひそう』ってどういう意味?」
小柄な体から絞り出すように、彼女は言った。
「…とても…悲しい」
地球を発ってから、彼女が初めて口にした言葉だった。
「ボクは、オガワ・マモル。キミは?」
「ホシノ・ミユキ」
ボクらはやっと、自己紹介をした。
地球を発ってから、そろそろ一週間になろうとしていた。
(つづく)