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星座の先のエピローグ ~生き残されし彼女たちの顛末 第6部~ 第94章 ピアノ

 出航して2日後に、ボクたちの部屋が決まった。隣同士の個室だった。これから火星への航行の間、そして火星到着後は居住モジュールとして、ボクとミユキが過ごすことになる空間だ。バスが共用なのと食事はカフェテリアでとることを除けば、トイレを含めて、生活に必要なものはすべて揃っていた。
 けれどミユキにとっては、大事なものが欠けていた。
 ピアノだ。
 好きな時間に集中して練習するには、ラウンジのグランドピアノは不向きだった。
 部屋が決まった次の日、ボクは船長室に行きドアをノックした。
【やあ。君か。たしか、マモル君といったね。入りなさい】とリチャードソン船長。
 船長室の中に入ると、船長が、ボクと「妹さん」の様子について聞いたので、問題ないことと、彼女はボクの妹ではないことを話した。
「あの子、ホシノ・ミユキといいますが、船長さんにミユキのことでお願いがあります」
【ほう、何かね】
「ミユキが練習に使えるピアノを、何とかしてやりたいんです」
 船長はしばらく黙って考えると、口を開いた。
【火星に到着して、居住区としての設置作業が終わるまでの間、学校のスペースは使われない。ひとまず、音楽室に設置してあるピアノで練習するというのでは、どうかな】
「ありがとうございます。ぜひ、お願いします」
【では、事務長に言っておこう】

 その日の午後、事務長さんがやって来て、ミユキとボクを音楽室まで案内してくれた。音楽室は居住ゾーンから中央通路を挟んで反対側の、共用ゾーンの一角にあった。
 事務長さんは音楽室の前で、セキュリティ認証の登録をしてくれた。
 さっそくボクたちは音楽室へ入ってみた。アップライトだけどちゃんとしたピアノが、床に固定されていた。
 チェアに座り蓋をあけると、彼女は鍵盤に長い指をあてて弾き始めた。「ハノン」という練習曲集。何曲か弾き終ると「バッチリ。調律もちゃんとしてるし」と彼女が言った。
 その足で、ボクたちは船長室に向かった。中に入ると、ミユキが切り出した。
「船長さん。ピアノのこと、本当にありがとうございます。とてもいいです」
【それは何よりだ。ただ…】船長は続けた。
【火星に着いて居住区としての設置作業が終わると、学校が始まり、音楽室も自由には使えなくなる】
「そうですね」とボク。
【彼女の部屋にピアノを用意しなければ、最終的な解決にはならない】
「どうすればいいでしょうか」
【誰か、君たちの知っている人で、助けてくれそうな人はいないかい?】
「…わたしには、いません」とミユキ。
「ママが仕事でお世話になっている人に、統治委員会の情報通信局の偉い人がいます」とボク。
【そうか。ならばその人に相談してごらん】

 その晩、ボクは国際連邦の情報通信局の部長であるアーウィンのおじさんに、MATESを送った。
 無事火星へ向かう船に乗り換え、部屋も決まって落ち着いたこと。
 ピアノがとても上手な子と知り合ったこと。
 彼女のためにピアノを用意してやりたいこと。

 翌朝見ると、アーウィンのおじさんからのMATESが届いていた。
 無事火星に向かっていて、何よりということ。
 友達ができてよかったこと。
 ピアノの件については、教育文化局に知り合いがいるので相談してみる。ミユキの演奏画像を送って欲しい。
 さっそくミユキと「作戦会議」。
「悲愴」を弾こうとしたミユキに。ボクは「少しやさしめで上手に弾ける曲にしたほうがいいのでは」と言った。
 ちょっと考えて、ミユキはピアノに向かうと一曲弾き始めた。
 軽やかな旋律が心地よい曲。「悲愴」よりは難しくない。けれど、ボクの耳でも完成度が高いことがわかる。
「これでいこう」とボクは言った。
 PITの正面に向いて立ったミユキが、最初に自己紹介と演奏曲名を言う。
「ホシノ・ミユキ、6歳です。モーツアルトのピアノソナタ、ケッヘル570を弾きます」
 そしてピアノに向かい、チェアに腰掛ける。演奏が始まる。
 一音一音丁寧に、そしてほどよい緩急をつけた演奏。なかなかの出来だ。
 演奏を終えた彼女が、再びPITの前に立って一礼。
 20分弱の「オーディション用ビデオ」が完成した。
 さっそくアーウィンのおじさんにMATESでビデオを送った。

 おじさんからの返事は、二日後に届いた。
「マモル君。送ってもらったビデオを教育文化局の知り合いに見てもらった。そして、彼の友人で火星のアカデミーの音楽の教授に、ビデオを転送して見てもらった。おめでとう。合格だ。火星に着いて居住区が落ち着いたらすぐに、ミユキさんの部屋にピアノが用意されることになった。そして、教授が信頼するピアノ教師のレッスンを、受けられるようにもなった。ミユキさんによろしく」
 ミユキに見せると、地球を発ってからはじめて、満面の笑みを見せてくれた。
 彼女はさっそくアーウィンのおじさんにお礼のMATESを送った。
 船長へは、ボクが報告した。とても喜んでくれた。

 2287年8月11日。
 船が月上空から出発してからちょうど1週間。
 そして「パパのケアの日」まで、あとちょうど2週間。
 地球を発ってからいろいろとあって気が紛れていたけれど、一段落ついてボクは、重たい現実に直面しなければならなくなった。
「パパとママのこと…考えてたの?」とミユキがピアノを弾く手を止めて聞いてきた。今日はいつになく練習に集中できないようで、ミスタッチが目立った。
「ミユキは考えないの?」と聞き返す。
「考えたくないから…ピアノがんばってるの」
「ボクのパパは、ちょうど2週間後にケアされるんだ」
「ママは?」とミユキが聞く。
「ママはカテゴリBだから2年後」
 ミユキは「ガーン」と、ピアノでとんでなく強い不協和音をならした。
「マモルはいいよね。火星に着いてもしばらくママが生きてるから」
 咎めるような口調でミユキが言う。
「今朝MATESが来てた。パパとママが11月の10日に一緒にケアされるって」
 ミユキは中断していた曲を再開した。明らかに荒っぽい弾き方になっていた。
 いたたまれなくなったボクは、音楽室を出て自分の部屋に戻った。

 1時間ほどして、ノックする音が聞こえた。
 ドアを開けるとミユキがいた。
 神妙な面持ちで、ボクの顔を下から覗き込むようにして言った。
「…さっきは、ごめんなさい…」
「…しばらくひとりにしといて」とボク。
「わかった」
 ミユキは音楽室に戻ったようだ。

 夕食のトレイをカフェテリアのテーブルのミユキのトレイの隣に置いて、いつものようにミユキの隣に座る。
 ミユキは黙っている。
「ボクは…パパとママとさよならしたときから、泣かないことに決めたんだ」
「うん」
「手伝ってほしいことがある」

 次の日の午後、いつも通り、二人で音楽室へ行った。
 いつもと違うのは、事務長さんに頼んで三脚を借りてきたこと。
 三脚にPITをセットすると、録画モードにした。
 まずはボクがPITの前に立って話す。
「パパ。ボクは元気です」
 続いて演者と演目の紹介。
「それではホシノ・ミユキさんが弾く、モーツアルトのピアノソナタ、ケ…ケ…」
「ケッヘル545」とミユキ。
「それをお送りします。聴いてください」
 ミユキが演奏する、ハ長調の明るく伸びやかな旋律で始まる曲。
「あまり長過ぎない、楽しい曲」ということでミユキが選んだ。
 演奏が終わると、PITの前で二人並んで一礼。
「パパ。ボクは大丈夫です。心配しないで」
「マモルは仲良くしてくれます」
「それじゃあ、パパ」
 こうしてパパへ送る10分ほどのミュージックビデオができた。
 ミユキのパパとママにも、ミュージックビデオを送ることにした。けれど、地球出発前から練習していた「悲愴」を、もっと上手に弾けるようになってから。そのほうがミユキのパパもママも喜ぶだろう、と二人で考えた。

 パパのケアの日、ボクはいつも通りに過ごした。
 朝食、昼食、夕食をミユキの隣で食べた。午前中はトレーニングのあと部屋で勉強し、午後は音楽室でミユキと一緒に過ごした。
 パパとのMATESのやりとりは、前の日に済ませてあった。

 夜、ママにMATESを送った。
「ボクは大丈夫です。いつも通り過ごしました」
 寝る前に、パパに送ったミュージックビデオを見た。
 泣きそうになった。
 けれど我慢した。

 ミユキは「悲愴」をがんばって練習した。
 そして10月の終わり頃、ミユキが弾く「悲愴」を録画して、ミユキのパパとママのためのミュージックビデオを作った。ミユキはその日のうちにパパとママに送った。
 二日後、ミユキのパパからお礼のMATESがボクに届いた。
「これからもミユキと仲良くして欲しい」と書いてあった。

 ミユキのパパとママが同時にケアされたとき、船は出航してから4ヶ月目に入っていた。
 その日、ミユキは朝から一日中音楽室にいてピアノを弾いていた。ボクは音楽室には行かずに自分の部屋で過ごした。
 昼食にも夕食にも、ミユキはカフェテリアに現れなかった。
 ボクが夕食を終えて、部屋に戻って一時間ほど経った頃だった。部屋を弱々しくノックする音がした。
 ドアを開けると、ミユキがピアノの譜面を抱えて立っていた。
 目を真っ赤に泣き腫らしていた。
「わたしも泣かないことに決めたのに…泣いちゃった…」とミユキ。
 ボクは、右手で彼女の左手を握り、あのときと同じように彼女を引っ張ってサロンに連れて行った。地球はもう、小さな穴のようにしか見えなくなっていた。
 グランドピアノのところに彼女を連れて行ってボクは言った。
「『悲愴』を弾いて」
 チェアに腰掛けてピアノの蓋を開ける。
 あのときと同じように、両手の指をピアノの鍵盤の左側のほうに置いた。
 ハ短調の和音が鳴り響き、曲が始まった。
 初めて聴いたときとは比べ物にならないくらいに上手で、情感豊かな演奏だった。

(つづく)


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