いくつかのセレナーデ(全)
いくつかのセレナーデ
遅れてきた青春時代。短くも濃密な時間をともに過ごしたヒトとのあれこれを、いくつかの音楽を交えて綴ったもの。
1.気にしてる
彼女は言った「気にしなくていいよ」。
「気にしてるんじゃない。気になってんだ」
そう言って、ボクは彼女をじっと見つめた。
肥後橋駅近くの喫茶店。
彼女の顔に、少し恥じらいを帯びた笑みが浮かんだ。
2.「My Ever Changing Moods」
初めて彼女の部屋を訪れたボク。
彼女は紅茶を淹れると、お気に入りのCDをかけた。
The Style Councilのこの曲。たしかピアノバージョンだったと思う。
曲に耳を傾け、ボクたちは抱き合うと、紅茶が冷めるのも構わずにそのままでいた。
愛は若く、ボクたちは幸せだった。
3.空耳、あるいは「Roxanne」
The Police の名曲の有名な「空耳」について、彼女に教えてあげた。
いわく「場末の街、その日暮らしで糊口を凌ぐ、うらぶれた『六さん』という男の物語」と。
いたく気に入った彼女は、少年のような声で何度も「六さん」と歌っていた。
その少年のような笑顔が、今でも忘れられない。
4.やわらかなパンチ
添い寝したボクの顔の、すぐ前に彼女の顔。
「オトコマエ」という言葉が、ボクの口を衝いて出た。
やわらかい、けれどしっかりとした彼女のパンチが、ボクの左の頬に飛んできた。
あのときボクは「ボーイッシュ」と言うはずだったんだ。
5.小さなビルの小さなオフィス
阪神高速沿いの小さなビルの小さなオフィスの
小さな会社に、ボクたちは勤めていた。
社長の秘蔵っ子だった彼女に比べて、
大した仕事ができなかったボク。
会社についていい思い出はない。けれど、
訪れた小さなビルのエレベーターの扉が開いて、
目の前に小さなオフィスが現れると、
今でも胸の奥が微かに震える。
彼女が、ボクが、せわしなく行き来していた、
小さなビルの小さなオフィスの光景が、
目の前によみがえる。
6.束縛という形
彼女のことをボクは、束縛しないようにしたかった。
しっかりと自分を持っている人。だから、
彼女の素振りにどこかよそよそしいところがあっても、
問い質さなかった。
彼女が、思わせぶりなことや、不安気な言葉を口にしても、
ただ微笑んで「大丈夫だよ」としか言わなかった。
二人の間には、幸せな時が流れていた。いや、
流れている、と信じ込んでいたボクには、
気付くことができなかった。
「愛の表現には、束縛という形も必要だ」ということを。
7.「北へ」
彼女は北へ向かっていた。金曜日の夜、四つ橋筋を。
彼女の家とは反対方向。ボクはついて行った。
彼女は「ついて来ないで」と言いながら、
ボクがたまらなく悲しくなるようなことを言った。
肥後橋の地下鉄の駅の入口まで来た。
「もうこれ以上ついて来ないで」と言って彼女は、
ボクを残して駅へと下りて行った。
梅雨前線が上空を、まさに北へ向かおうとしている頃だった。
ボクはそのまま北へ歩いて大阪駅へ行った。
当時まだ走っていた、北陸本線の夜行の急行列車に乗った。
翌朝、終点からフェリーに乗り継いだ。
さらに北へ、北海道まで行った。
8.回した彼女の手
ボクは彼女にキスしようとし続けた。
彼女はそれを拒み続けた。
力尽きたボクは、弱々しく彼女にすがった。
ボクの口からは、微かに嗚咽が漏れていた。
彼女はそっと手を回して、ボクの背中を何度もやさしくたたいた。
ゆったりとしたリズムで、
なだめるように、あやすように。
9.眠れぬ夏の夜
彼女の部屋の電話が鳴った。
真夜中だった。
ボクを向いて人差し指を口の前に立てる彼女。
言葉少なに何やら話した。
電話を切ると着替え始めた。
彼女の部屋の前に車の音。
彼女は出て行った。
眠ろうとするボク。
眠れないまま短い夏の夜が明けようとしていた。
彼女の部屋の前に再び車の音。
彼女が戻ってきた。
着替えると横になって寝息を立てた。
いたたまれなくなって外に出た。
路地から路地へと彷徨い歩いた。
戻ったボクを目を覚ました彼女が見つめた。
悲しそうな目だった。
10.払い戻し手数料
正月にボクは招かれて、地方都市の彼女の実家に行った。
家族から歓待を受けた。
それから半年。
ボクは彼女の故郷へ飛ぶためのチケットを2枚買った。
搭乗者の名前は彼女とボク。
彼女は拒んだ。
ボクは諦めるしかなかった。
数日後彼女から聞かれた、もうキャンセルしたの。
まだキャンセルしていない、とボクが言うと、彼女は、
2枚とも譲って欲しいと言った。
ボクの名前のチケットの払い戻し手数料は、自分たちで払うという。
愛は時として残酷だ。
でもそれが、いずれ支払わなければならない手数料なのだとすれば、
愛はその分だけ優しいのだ、とも思う。
11.花
金曜日になるとボクたちは心斎橋筋へ出て、そのままずっと南に歩いた。
ボクが、開いていた花屋で彼女に花を買ってあげたことがあった。
今でも思い出す、そのときの彼女の嬉しそうな顔。
ボクたちの関係が終わろうとしていた頃、心斎橋筋の花屋の前。
花を指差すと、彼女はボクに向かって言った。
「お花...」
今でも思い出す、そのときの彼女の悲しそうな顔。
12.モノガタリ、あるいは「風を忘れて」
童話風のモノガタリを書いた...
彼女は白い鳥さん。
ボクは犬のポチ。
ポチが暮らす野原で出会ったふたりは、仲良く過ごしました。
ある日気まぐれな風が、野原に吹き渡りました。すると、
鳥さんは羽ばたいて、空へと飛んで行きました。
ポチは、空に向かって呼びかけました。
「帰りたくなったら、いつでも帰っておいで」...
読み終えると、彼女は言った。
「これじゃあ結びは『つづく』だね」
二人のモノガタリは「おわり」に向かっているというのに。
13.絶交
「彼」について、彼女はボクの知らないヒトだと言った。
もしも知っているヒトだったら「絶交」するとボクは言った。
戎橋筋商店街の食堂で、彼女は本当のことを話した。
「絶交」という言葉が、ボクの口から反射的にこぼれた。
彼女の顔が悲しげに曇った。
一番つらかったのはキミだろう、嘘をつくことができない人だから。
そうボクは言った。
彼女の顔に、少し憂いを帯びた笑みが広がった。
ボクたちは「仲直り」した。
14.距離
ボクたちは、お互いに抱えた傷を癒そうとしていた。
言葉を交わし、言葉を重ねることで。
もう越えることのできない、二人の間の距離。
その、ぎりぎりのところに立ちながら。
15.「ホタルと流れ星」
山鉾巡行の日、朝から二人で京都に行って、祭囃子が遠くに聞こえる中、東山で展覧会を見た。
喧騒を嫌がった彼女。新快速で神戸に行って、百貨店でお揃いの財布を買った。
ハーバーランドで最後の食事をして、新快速で大阪に向かう車中。
二人は買ったばかりの財布にお金やカード、小物などを必死で移し替えた。
タイムリミットの午前0時になる前に。
そのときの財布は、もう随分前に使えなくなったけれど、セットの名刺入れは今でも手元にある。
16.「いちょう並木のセレナーデ」
別れてしばらくして、ボクは彼女と電話で話をした。
カッとなった彼女は、彼に「別れる」と言ったらしい。
すると彼は、大声で泣きだしたのだという。
「もしあのとき、キミが大声で泣いたていたら、どうなっていただろう」
彼女のその問いにボクは答えなかった。
そしてボクたちは、小沢健二のこの曲を、電話越しに一緒に聴いた。
17.ベンジャミンくん
初めて彼女の部屋に行ったとき、青々と繁った元気な観葉植物が目に入った。
「ベンジャミンくん」だと彼女が言った。
時は流れ、部屋を訪れる主が変わった。
置いていた着替えとかをボクが引き上げに行ったとき、ベンジャミンは無くなっていた。
突然、枯れたのだという。
「ベンジャミンくんは、きっとキミのことが大好きだったんだね」と彼女は言った。
18.軌道線
彼女の住んでいた街には、軌道線が走っていた。
軌道のすぐそばにある鶏料理の店は、満員で入れなかった。
ボクたちは軌道を渡って、さらに鉄道の高架をくぐった。
いつも長い時間、話をした国道沿いのファミレス。
最後のテーマは「時はまっすぐに進むかどうか?」。
ボクは「必ずしもまっすぐではない」と言った。
彼女は「まっすぐだと思いたい」と言った。
秋は深まりつつあった。
いつも高架の鉄道を使っていたボクは、
帰り道、最後の記念に軌道線に乗ることにした。
高架下、ちょうど駅の改札口の前を過ぎたあたり。
ボクの左腕は自然に腕組みの形になった。
彼女も自然に右手を添えようとした。
かつて自然にそうしたように...
気付いたボクたちは笑い出した。笑い終わると、
やさしく手をつないで、軌道線の停留場へと向かった。
了