生き残されし彼女たちの顛末 第2部 第36章 勝負服
[あとは、条件についてだ、張子涵。今回の件で、我々にはどのようなビジネス・チャンスを提供してもらえるのかな?]
[きたな、田董事長。まず、上海からネオ・シャンハイへ人や物を運ぶのを、すべて持盈に発注する形で仕切ってもらいたい。他の業者には傘下に入ってもらう。ただし…原価ベースでやって欲しい。人件費とか燃料代とか発生した経費のみの請求で、利益は乗せない形で引き受けてほしい]
[…いいだろう。「利を見ては義を思い」だな。まあ、すでに仕事が減っているとこに移動が始まればさらに減っていく。人件費分だけでも回収できれば御の字だ]
[その代わりと言うのもなんだが、武漢や重慶から運ぶ分については、あたしらに仕切らせてほしい。こちらの持ち船だけでは足りないから、船や車を回してもらえないか。上海のと同じ条件で、経費分は支払う]
[わかった。そちらもOKだ]
ひとまずほっとした風の張子涵。
[ネオ・シャンハイに行ってからについては、どうだ?]と田国勝。
[ネオ・シャンハイに移った後の上海街区での商物流ビジネスの中で、持盈商業流通集団とその傘下企業に、一定の優越的地位を与える、というのではどうだろう]
[具体的には?]
[移動後3年の間、50%のシェアを保証する、というのではどうかな。キャラバン・コネクションの分も含めて]
[3年? 50%? 話にならんな。我々の今のシェアを考えると少なすぎる。最低でも5年、80%はいただきたい]
[期間の3年は譲れない。3年もやっていれば、よほど阿漕な商売をしない限り、その後もシェアは保てるだろう。保証するシェアは60%ではどうだ?]
張子涵は、「3年、75%までは譲歩してもよい」と周光立、ダイチに確認していた。
[3年については了解した。ただしシェアの80%は譲れない]
おもむろに立ち上がると、張子涵はみんなを見回して言った。
[あたしが着てきた旗袍は、母親の形見の品だ。「ここ一番」というときに着れるよう、体型にも気を配ってきた。今日ここに着てきたのは、あんたらおじさん方の目の保養のためだけじゃない。この場に臨むのに、「私はそれなりの覚悟を決めてきた」ということだ]
一座がシーンとなる。
[田董事長、小さな数字にこだわって、ここまで決めたことを台無しにはしたくないんだ]
[張子涵の言っていること、あたしはもっともだと思う」と親交のある江東会会長の陳紅花が援軍に回る。
[…わかった。けれど期間では譲歩した。シェアについては、もう少し色をつけてくれないか。70%ではどうだ]
[了解、3年、70%だな。周光立、楊大地、構わないな]
頷く二人。
[よし、これでビジネスの条件も含めて、すべて合意した、ということでいいな?]
田国勝が立ち上がり、張子涵に向けて手を差し出した。握手を交わす田国勝と張子涵。
[私からキャラバン・コネクションのみなさんにお願いがあります]と周光立が発言する。
[何でしょう]と正面に座った南京会会長の林孝通が応じる。
[「AF党」のことです。今日こうやって、連邦と和解する方針を決めたからには、みなさんにとって、もう「反連邦」の旗をかかげる理由はなくなりましたよね]
[その通りです。周副総書記]
[ではAF党との関係を断っていただく、ということでよろしいですか、林会長]
[自然の流れでそうなるでしょう。ただそうすると、AF党のもとには最もたちの悪い連中ばかりが残ることになりますぜ。最近「クスリ」の取引に関わっている連中が、AF党と関係を深めているとか]
[困ったものです…ネオ・シャンハイへの移動までに、何とかしなくては]
[そうですか…あの、私らの「裏稼業」については、今まで通りで?]
[えー…私にも立場があって…]
しばし言い淀んだのち、周光立が続ける。
[「私の考え」としては申し上げられないのですが、上海自経団における法の執行に関する慣例としては、ご承知かと思いますが、「クスリ」以外については、法外な請求や人権の侵害が認められない限り摘発は行わない、となっています。自経団の体制がそのままであるならば、かかる慣例をネオ・シャンハイに行っても、変える理由はないものと思われます]
[わかりました。では「庶民へのささやかな娯楽の提供」という線から踏み出さない形で、今後も続けさせていただきましょう]
持盈側に座った7人のうち、端の2人が張子涵側の周光立とダイチの隣の空いている席に移動し、5対5の対面の形になったところで宴席の始まり。上海を代表する料理店の一つである、南京酒家から運ばれてきた食事の数々。南京会がオーナーの料理店だ。
白酒による文字通りの「干杯」を重ね、宴が進む。
22時頃、足元が覚束なくなった周光立を、これも足元がふらつき気味のダイチが支える形で李勝文のタクシーへ向かう。後ろからしっかりした足取りの張子涵が続く。男二人が後部座席に納まるのを確認して、張子涵が助手席側の扉をあける。暗闇の中でも映える彼女の旗袍に、李勝文がやはり一瞬ポカンとなる。
[安全運転で頼むぜ、李勝文]と言って彼女が助手席に腰かけ、扉を閉める。
その口調に張子涵であることをしかと覚った李勝文が、車を発進する。
雨は上がっている。
翌9月20日、午前中に、前日の交渉結果を受けて臨時のマオ委員会を武漢等とつないで開催した。終了後ダイチが、張子涵の写った画像をMATESで秘書處メンバーに共有する。
高儷 :やっぱりすごい、張子涵!
ヒカリ:いつも高儷と言ってたのよ
ヒカリ:(「素敵」スタンプ)
ジョン:女装デビューか?張子涵
陳春鈴:ジョン、うける~
陳春鈴:(「爆笑い」スタンプ)
張子涵:「女装」の「女」は余計だ
ジョン:武昌の男子を代表して
ジョン:楊書記にご感想を
ダイチ:え、私ですか?
ダイチ:え、えーと…
張子涵:はい、時間切れ!
張子涵:(使えん奴」スタンプ)
高儷 :でもほんとスタイルよくて
張子涵:そういう高儷だって小顔で
張子涵:抜群のプロポーション
張子涵:(「太鼓判」スタンプ)
高儷 :ロシア人の血をひいてられるとか
張子涵:母方の曽祖父がロシア人でね
高儷 :うらやましい
高儷 :私はわかる限り100%モンゴロイド
高儷 :(「さめざめ」スタンプ)
ヒカリ:わたしはふたりとも羨ましいな
ヒカリ:(「目がキラキラ」スタンプ)
ヒカリ:わたしはただのやせっぽち
ヒカリ:(「うるうる」スタンプ)
高儷 :ヒカリさんには名門のオーラを感じるわ
張子涵:(「もっともだ」スタンプ)
陳春鈴:ねえねえ、今度
陳春鈴:4人そろって旗袍着てみない?
高儷 :賛成!
高儷 :(「かしこまりました」スタンプ)
張子涵:シカリは?
ヒカリ:たしかサユリさんのがあったと思います
陳春鈴:じゃあ決まりだね。
陳春鈴:(「お約束」スタンプ)
ダイチ:女性3人にお子様1人
陳春鈴:ひどい!
陳春鈴:([プンプン」スタンプ)
張子涵:お、周副総書記が入った
張子涵:お言葉を!
周光立:えー、このたび張子涵さんのお取り計らいで
周光立:マオ委員会秘書處のMATESグループへの
周光立:参加を許されました周光立です。
周光立:どうぞよろしく。
周光立:(「ペコリ」スタンプ)
張子涵:挨拶、ながっ!
張子涵:(「手短に願います」スタンプ)
ジョン:周光立、よかったら張子涵を
ジョン:嫁にもらってやってくれませんか?
陳春鈴:(書き込みかけてやめる)
周光立:いえいえ、私のようなものが
周光立:武漢の珠玉を頂戴するわけには…
張子涵:武昌の男ども、周光立の紳士っぷりを
張子涵:少しは見習いなさい
張子涵:(「天晴!」)スタンプ
陳春鈴:あれ? 男といえば李薫は?
[ひゃっほー。こいつは愉快だ!]
[おい、無茶するな、張子涵]
[まだまだ、イエーイ。どうだい、あたしの腕前は?]
[わかった、わかった。頼むから、真っ直ぐに走行してくれ]
昼食の後、ダイチと張子涵は、ダイチのエアカーで武昌への帰途についた。
往路に交わした「ご褒美」の約束に従い、運転席には「男の子」の装束に戻った張子涵が座った。上海の街区を手動の地上走行で抜けると、いよいよ張子涵はエアカーを空中走行に切り替えた。ハンドルを手前に引くと高度が上がる。高度10mくらいまで浮上すると、彼女はダイチの手ほどきでエアカーを前進させた。
最初はぎこちなかった彼女のハンドル捌きは、ほどなく手慣れたものになってきた。そうすると彼女はいろいろな動きを試し、ついには右に左に高速スラロームをやり始めた。
晴れた空に点々と雲が浮かんでいる。
一通りいろんな「走法」を試すと、張子涵はおとなしく真っ直ぐ走行するようになり、自動運転に移った。
[あれ。目的地モードになっている。どうして道路上空走行モードにしないんだ?]
[いいじゃんかよ、このほうが早いし。それに今日のドライバーはあたしだから]
[途中までじゃなかったのか?]
[交渉が「成功」ならそうだけど、「大成功」だったろ。武昌まであたしがドライバーさ]
[しょうがないなあ…まあ、任せることにしよう]
張子涵の運転による揺れが、ダイチの眠気を催したらしい。言葉がスローダウンしてきた。
[勝負服の旗袍着て覚悟決めて臨んだんだからね。これくらいの成果は出さないと]
[よく、頑張って、くれた]
[やつらの反応、面白かったよな? あんたも最初、結構ドギマギしてただろう?]
[ああ…意外だった…から…]
[旗袍姿のあたしに「女」を感じちゃった。図星だろ?]
[…馬鹿…言うな…]
ダイチのほうを見ると、助手席側のドアにもたれて寝息を立て始めている。
彼が完全に眠ったのを確認した張子涵の独り言。
[ほんとは…あんただけに見せたかった…旗袍姿]
言ってしまうと、むず痒いような恥ずかしさがこみ上げてきた。
思わず下を向いて両手で顔を覆う張子涵。
彼女の手が、「ピリリ」と衝撃波を感じた。
(第2部へつづく)