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生き残されし彼女たちの顛末 第2部 第25章 ヒカリ、夏バテになる

 漢陽と武昌の体制が変わった頃から、ヒカリの体調がすぐれなくなった。全身に倦怠感を覚え、熱っぽく、しばしば立ちくらみがして食欲が湧かない。
 8月19日の幹部会の日、朝から近くの診療所で診察をうけたところ「夏バテ」との診断だった。数日間安静にして水分をしっかり取って様子を見るように、との医師の指示で、栄養剤と食欲増進剤を処方してもらった。その日は幹部会もマオ委員会も欠席して静養することとし、MATESグループにメッセージを送った。
真っ先に反応したのが陳春鈴。「大丈夫?」のスタンプを送ってきた。
「心配しないで、リンリン」とメッセージを返す。
【食べたいものあったら用意しますから言って下さいね】と高儷のメッセージ。
【お言葉に甘えて、お粥とあっさりしたものお願いします】と返信する。

 18時半を少し回ったころ、ダイチと高儷が戻ってきた。さっそくキッチンに立つ高儷。リビングのソファーに腰を下ろしたダイチのもとへ、起きてきたヒカリがやってきて座る。
「具合はどう?」とダイチ。
「そうね、少しマシになったと思う」と、ふだんよりゆっくりした口調でヒカリが答える。
「ネオ・トウキョウでは経験することのない高温多湿の環境の中で、生まれて初めて生活したのだから、無理もないね」
「さすがにこたえたみたい」
「まあ、いろいろと活躍してもらったから、少しゆっくりするといい」
「幹部会はどうだった?」
「そうだね、漢陽に行ったメンバーが報告に来たので、キミが欠席だったのを除くと、今回は顔ぶれに変わりはなかった。孫書記の報告には、特に区長たちが熱心に耳を傾けていたね」
「委員会は?」
「武漢の意思統一ができたことを受けて、重慶と成都に働き掛けを始めることを決めた。メンバーは今のところ変えていない。3地区の代表が集まる形になるから。それと、来週からはビデオ会議で開催することにした。漢陽、漢口のメンバーが毎回参加できるからね」

 高儷の作った粥と、魚と野菜を薄味で煮たおかずを、ヒカリは「ハオチー」を連発しながら食べた。食事が終わった20時少し前、ドアをノックする音がした。ダイチがドアを開けると、カオル、張子涵、陳春鈴の3人連れ。
[シカリのお見舞いに来た。入っても大丈夫かい?]と張子涵。
[よく来てくれた。どうぞ入ってくれ]とダイチ。
 ダイチと3人は、リビングのソファーに腰をかけた。
[お食事はすませたのですか?]と片づけをしている高儷がキッチンから聞く。
[はい。街中の食堂で」と張子涵。
[シカリ姉さんにお見舞いを買ってきたんだよ]と陳春鈴が、箱を差し出す。
 ダイニングのテーブルからヒカリがゆっくりとやってきて、箱を受け取る。
「ありがとう。気を遣わせちゃってすみません」
[ジョンも来たがってたんだけど、どうしても外せない会合があるらしくて。「仕事は気にしないでしばらく休め、と伝えてくれ」って言ってたよ]
 片づけがひと段落ついた高儷が茶を用意して、ジョンを除いた「秘書處」MATESグループのメンバーが揃った。
「なんだろう、開けちゃっていいですか?」もらった箱を見ながらヒカリが聞いた。
[もちろんだよ、開けておくれよぉ]
 包みを解いて中から出て来たのは、果汁入りゼリーの詰め合わせ。4種類が5個ずつで、ちょうど20個入っている。
[食欲無くても食べられるかな、と思ったんだけど]と張子涵。
「ありがとう。おいしそう。せっかくだから一緒に食べましょうよ」
 高儷が、キッチンから人数分の小皿とデザートフォークを持ってきた。めいめい好きなものを選び、小皿に移して食べ始める。ひとくち口にして「ハオチー」と声を上げるヒカリ。
[どうやら食欲は回復しつつあるようだね]とダイチ。
 話題は漢陽に行った孫強のことになった。
[孫局長は、漢陽で大活躍のようだな]と張子涵。
[その通りだ。ただ、ひとつ言うと「孫局長」じゃなくていまは「孫書記」だからね]とダイチ。
[いけない、そうだった。でも「公安局局長」がほんとに板についているから]
 精悍な顔立ちに、引き締まった体躯の孫強の姿を思い浮かべて、一同「同感」の表情。
[でもシカリ姉さんや高儷は知らないだろうけど…ね]と陳春鈴が張子涵にシグナルを送るように言う。
[そうそう]
「え…何ですか? 張子涵、リンリン?」とヒカリ。
[孫書記は、ゲームがお好きでね。どんなゲームがお気に入りか想像できるかい?]と意味深そうな口調で張子涵が問いかける。
[えーと、バトル系とかアクション系、それも男性系の、とか?]と高儷。
[だよね。そう思うよね。でもこれが違うんだな…ねえ楊大地]と陳春鈴。
[え、私に振るのかい。え~と、孫書記は…美少女キャラのゲームを特に好まれるのだ]
 しばらく沈黙したのち、ヒカリと高儷がほぼ同時に驚いた声をあげる。
「ええーっ、信じられない!」
[だよね。でもほんとなんだよね。だから李薫とゲームやアニメの話を始めると、平気で1時間くらい話し込むんだよね。ねえ、李薫]
 陳春鈴の問いかけに、カオルからの返答がない。
[ねえ、李薫ったら、どうしたの?]
[…あ、ああ。なんの話だっけ?]と、あわてて聞き返すカオル。
[孫書記のゲーム好きの話じゃないか。ぼーっとして、李薫も夏バテかい?]と張子涵。
「カオルさんもゲームがお好きなんですね」と言うヒカリ。
 彼女の視線を微妙に避けるようにしてカオルが答える。
「え、ええ。そうですね」…

 …ダイチの家で初めてヒカリに会ったあの日以来、カオルはずっと戸惑いの中にいる。ときどき漏らすため息の原因が、それまでは亡くなったフィアンセのサユリだけだったのが、サユリにそっくりのヒカリも加わって頻度が高くなった。
 特に月曜日、ヒカリがオフィスにやってくる日は、「心ここにあらず」の状態に陥るのをなんとかこらえて乗り切っている状態だ。民政局の自分のデスクから技術局のヒカリの席の間には、財務局と商務局のデスクが並んでいる。ふと気づくと、ヒカリの席に視線を向けている。なのに、彼女が立ち上がって視線が合いそうになると、さっと逸らしてしまう。
 ならば、ヒカリがいなかった今日は平静に過ごせたか、というと、そうもいかない。「いるはずの人がいない」ことが気になって、そわそわとしてしまう。
 陳春鈴が羨ましい。彼女はこの事態を見事に消化して、自分のものにしている。
(なんでこんなにサユリにそっくりな人が現れてしまったんだ…)とつくづく思う。
 カオルがサユリを意識するようになったのは、高中に通うために上海に行き、初めての春節の休みに武昌に戻って再会したときだった。初級中学を一緒に卒業した後、小学校教師になるべく武昌の訓練校に通っていたサユリ。幼馴染で、当たり前にそばにいる空気のような存在だった彼女が、久し振りに会ったとたん、実体を持った一人の「少女」として眼前に現れた。それまで感じたことのない、サユリに対する思いが芽生えた。年に一度武昌に戻って会うたびに、少しずつ「少女」から「女性」への階段を上っていくように変わっていくサユリ。カオルの彼女を思う気持ちは募っていった。
 カオルは、高中の間、何人かの女の子と付き合った。けれど長続きしなかった。3人目、1年上の芸術科のニッポン人から、「普通の友達に戻る」ことを決めた日にこう言われた。
「あなたの眼差しは、いままでずっと、そしていまも武昌に向いている…」
 カオルが3年間の高中生活を終え武昌の支団で働き始めるのと同時に、サユリは小学校教師として働き始めた。明るくて社交的な彼女の周りには、いつも誰かがいた。典型的な「お兄ちゃんっ子」。カオルがサユリの中に位置を占めるのは、容易なことではなかった。挨拶の時に必ずサユリの最近の様子を聞くようにしたり、幼馴染のみんなで集まるときは、必ずサユリのとなりに座るようにしたり、彼女の中に「カオルの居場所」を作っていった。
 高中を卒業して3年経った頃から、二人だけで食事や映画に行くようになった。やがて自然に「そういう」仲になり、5年経ったころには自他ともに認めるカップルとなった。そして7年経ったとき、二人は婚約した。
 二人の前には永く続く未来があると思っていた。実際には1年しか残っていなかった…

…[でも、アニメの話になるとジョンにはかなわないだよな。なあ李薫]と張子涵。
[…ええと、なんの話だっけ?]とカオル。
[おいおい、さっきから何ぼんやりしてるんだい]
[李薫もやっぱり、夏バテなの?」と陳春鈴。
「カオルさん。大丈夫ですか?]と心配げにヒカリ。
「ああ…大丈夫」ぎこちなさを隠せないカオル。
(やれやれ、自分をこんなふうにしている張本人から、心配されている。)
 カオルは溜息が出そうになるのを、どうにかこらえた。

 ヒカリの静養の邪魔になってはいけない、と見舞いの3人は21時頃にお暇した。

 ヒカリは19日を含めて3日静養したのち、22日の木曜日に仕事に戻った。
【本当にもう、大丈夫かい】とジョン。
【ご心配おかけしました。もう大丈夫です】とヒカリ。
【月曜、火曜は店が休みだったし、実質昨日1日の欠勤だから、お前さんの仕事のほうは大丈夫だろう】
【ちょうどタイミングが良かったです】
 暑さも峠を越えたようで、朝晩を中心に随分と凌ぎ易くなってきた。

(つづく)


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