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星座の先のエピローグ ~生き残されし彼女たちの顛末 第6部~ 第98章 ピアノの上手な女の子

 2295年の7月に、ボクはアカデミーの前期課程に入学した。ミユキがピアノのレッスンに通っているのと同じアカデミーで、通学には片道1時間かかる。地質学と気象学の学士号の科目に航宙士の科目も加わり、1年間の履修科目上限数いっぱいを受講する必要があった。学士号1つで2年、2つで3年というのが標準だったから、無理もなかった。
 ミユキはハイスクールの2年次に進級し、いよいよコンクール本番が近づいてきた。土曜、日曜のレッスンの他に週1回、夕方に特別レッスンを入れてもらっていた。
 ボクたちは、ますます一緒に過ごす時間がなくなった。平日は夕食すら一緒にできなかった。土日も朝は起きる時間が会わず、夕食を一緒にして、そのあと少し話をするのがやっとになった。その代わり、MATESでコミュニケーションをとることが多くなった。

 9月9日。ミユキの15歳の誕生日が、コンクールエントリーの締め切り日。登録フォームに課題曲と自由曲の演奏画像を添付して申し込みをする。プロ・アマ問わず、また年齢制限もないので、ピアノ部門のエントリー数は900を超えたという。
 ミユキは、課題曲に「悲愴」の第一楽章を選び、自由曲は、フレディ・チャンという22世紀に活動した中国系アメリカ人ピアニストが作曲したソナタから第三楽章を選んだ。
 9月末日に、予備選考の結果がミユキに届いた。30人のピアノ部門コンクールの参加者の一人に選ばれた。
「おめでとう」とボク。
「スタートラインに立ててよかった」とミユキ。
 一次予選は10月12日と13日。エントリー時の課題曲と自由曲をステージ上で演奏する。上位15人が進む二次予選は10月27日。13日の一次予選結果発表後に初めて譜面が公開されるコンクールのオリジナル課題曲を、約2週間で習得して演奏しなければならない。その結果上位7人が本選に進む。そして11月9日の本選は、主催者側指定の100曲のリストから1曲と、これまでに演奏した曲とは異なる1曲を組み合わせて、60分以内の演奏に仕立てなければならない。
 ミユキは一次予選を全体の10位で通過した。
「二次突破は無理かな?」と言いつつ、彼女はオリジナル課題曲を必死になって練習した。
 結果は全体の5位で通過。念願の本選進出を果たした。
 一次予選、二次予選、本選とも応援に行きたかった。けれどボクは、アカデミーの授業や演習、補講やエッセイの提出などで手一杯だった。ミユキの出番の少し前を見計らって、応援のMATESを送るのがやっとだった。
 ミユキはピアノの先生と相談して、本選のリストからショパン、自由曲は、ウォーレ・ソワンデのセレナーデを選んだ。23世紀初頭の大戦の影が忍び寄る時代にナイジェリアで活動し、第四次大戦で命を落とした作曲家の作品。

そして、本選の結果発表の日が来た…

【発表します。第二回火星音楽コンクールピアノ部門の第1位は…】
 アナウンスとともに、ライトイエローのワンピースのステージ衣装に身を包んだ彼女に、スポットライトがあたる。
【ホシノ・ミユキさん!】
 ファイナリスト7人の中で最年少。そして一番小柄。
「火星で一番、ピアノの上手な女の子」が誕生した瞬間だ。
 ミユキは、自分の名前が告げられてもしばらく、文字通り「ポカン」としていた。隣に並んだ第5位の女性が、ミユキの右手を取って高々と上げる。会場は割れんばかりの拍手。
 表彰式。7位から4位の人には表彰状の授与。3位と2位の人には表彰状と記念の盾。
 そして1位のミユキには、トロフィーと表彰状と盾。
 記念写真。トロフィーと盾を両脇に抱えて、真ん中に立っている彼女。
「チビっ子」なのだけれど、今日はとても大きく見える。
 表彰式が終わって、ボクは楽屋側に回った。けれど、15歳のチャンピオン誕生に関係者や報道陣が群がっている状態で、とてもミユキに近づけなかった。「おめでとう!!!」とMATESを入れて、その日は会場を後にした。
 部屋に戻り、ママに報告のMATES。「すごい! よろしく言ってね」との返信。
 ミユキのピアノの恩人であるリチャードソン船長とアーウィンのおじさんにも、ボクから報告した。船長はボクたちを火星に運んだ航行の後、月へ向かうスペースプレインの船長として航行し、月に戻っていた。二人とも、とても喜んでくれた

 翌11月10日。同じ会場で、音楽コンクールの声楽部門、弦楽器部門、菅打楽器部門、ピアノ部門の上位3人による受賞記念コンサートがあった。最後に出演するミユキの出番に合わせて、ボクは会場に行った。やはり客席の後ろで立って見る。
 彼女がステージに現れた。昨日とはうって変わって、背中にリボンをあしらった、少女らしいピンクのステージ衣装。チェアの高さを合わせると、彼女はピアノを前にして座った。演奏する曲は事前に発表せず、直前まで演者が考えて決めることができる。
 一瞬、彼女の視線がボクをとらえた気がした。そして彼女は演奏を始めた。
 嬰トの黒鍵を優しく、少し長めに鳴らすとその曲が始まった。ベートーベンのピアノソナタ第30番ホ長調。ずっと以前に、ボクがミユキに「お気に入り」と言った曲だ。
 20分は、受賞記念曲としては少し短めだったかもしれない。けれど渾身の演奏に、終わると会場は万雷の拍手に包まれ、全員スタンディング・オベーション。最後に、今日の出演者が全員登壇して歓声に応えるのを途中まで見ると、ボクは会場を後にした。
 ミユキにMATESを入れる。
「おめでとう。そして、ありがとう」
 受賞記念コンサートの画像は、その日のうちにウェブ上にアップロードされた。ボクはミユキのパートのリンクをママに送った。「ボクのお気に入りを弾いてくれました」というメッセージを添えて。

 それからしばらく大変だった。取材の申し込みで、彼女の先生のMATESは溢れかえっていた。ボクたちの部屋の前まで、インタビューをしようという記者たちがやってきた。
 何度かボクも質問を受けた。ボクのことを「恋人か?」と聞く。否定すると、関係を聞いてくる。リチャードソン船長のことを思い出して「妹だ」と答える。名前を聞かれて「苗字が違う」と言われて「ボクは父方、彼女は母方」と答える。だいたいこんな感じだった。
 コンクールの後に、公式の記者会見があったけれど、それだけでは足りなかったようだ。このままでは、ミユキのピアノの練習は言うまでもなく、勉強にも悪影響が出ると考えた先生が、日曜の午後をとって単独記者会見を行うことにした。質問がなくなるまでとし、ウェブ中継で、リモートで質問を受ける形式とした。
 ボクは自分の部屋で、勉強をしながら中継を見た。プライベートな質問も多数あったけれど、同席の先生が上手くサポートされ、どうにか乗り切っていた。
 会見が始まって1時間ほどした頃だろうか、一人の記者がこう質問した。
【いま一番感謝しているのは、どなたに対してですか】
 しばらく考えて、ミユキは答えた。
「そうですね…先生はもちろんですし、いろいろな方々が、わたしがビアノに専念できる環境作りをしてくださいました。ただ、もしも許されるなら…」
 一呼吸おいて続ける。
「両親に一番感謝したいです…わたしをビアノの世界に誘ってくれたのは、両親です」
【貴女は、地球出身ですね。ということは…】
「はい、そうです」
 このやり取りのあと、プライベートな質問は影を潜めた。
 単独記者会見の効果か、ミユキへの興味本位の取材や追っかけは、目に見えて減少した。
 記者の攻勢が一段落すると、ミユキのもとにはリサイタルの申し込みが舞い込むようになった。ハイスクールの生徒には遠隔地でのリサイタルは難しいので、近隣で開催するリサイタルをウェブでライブ配信する形式とし、1ヶ月に2回程度のペースで開催した。
 それとは別に、土曜の夜のラウンジでのミニリサイタルは続けた。ただし「観客は1382居住区の住民限定」とせざるを得なくなった。

(つづく)


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