生き残されし彼女たちの顛末 第2部 第27章 会見
茶を一口啜っていると、奥の扉が開いて、杖をついた老人が入ってきた。4人を案内してくれた年配の女性が、彼の肘に軽く手を添えて一緒にやって来る。老人は左足をわずかに引きずるようにしてゆっくりと歩き、ダイチの向かい、机側の中央の椅子に腰を下ろした。
少し縦長な卵型の顔。頭頂部まで禿げ上がり、耳の上から後頭部にかけて残った白髪が短く刈り込んである。髭はきれいに剃ってあり、細い唇はキリっと結ばれている。細く長い眉の下に、刻まれた皺の中から鋭い眼光がのぞく。
上海の最高実力者、周光来の登場である。
[久し振りだな、楊大地]と、89歳とは思えないしっかりとした口調の周光来。
[ご無沙汰しております、名誉総裁閣下]とダイチ。
周光来は上海真元銀行の名誉総裁の地位にある。
[妹御のことは残念だった。葬儀に参列したかったが、体が許してくれなかった]
[お心遣い、痛み入ります]
案内の女性は、廊下側の扉から部屋を出て行った。
[ところで周光立、このおニ人の女性はどういう方かな]
[今日お時間をいただいた理由ですが、まずはこの2人の話を聞いていただきたいと思います]と改まって周光立。
[閣下、2人の紹介は私からしましょう]
ダイチは左手をさした。
[まず、こちらの者は高儷。いまは武昌支団の民政局の仕事をしています]
[ニン・ハオ。高儷と申します]
[実は彼女の存在は、私たちの間では8月の初めまで知られていませんでした]
[ほう。それはどういうことかな]と興味深げに周光来。
[彼女は、8月になってネオ・シャンハイから来たのです]
[耳にしておるところでは、6月末限りでネオ・シャンハイは「空っぽ」になったとのことだが]と周光来が怪訝そうに聞く。
[そのへんの経緯は、本人に話してもらうこととしましょう]とダイチは高儷を促す。
高儷は、自分の身に起こったことを話した。家族が次々と安楽死処置を施され、自分も6月末日に施されるはずだったのが生き残ってしまい、ネオ・シャンハイでしばらく身を潜めたのち、8月に入って周光立のはからいで上海に収容され、いまは武昌支団に勤めている…
高儷の話を頷きながら聞いていた周光来。話がひと段落つくとしみじみと言った。
[いろいろとあったのだね。家族を亡くしてひとり残されて、さぞや心細かったことだろう]
[出て来てからは周光立、楊大地初め、いろいろな方に良くしていただいています]と高儷。
アシスタントが入ってきて、4人のために冷茶の入った保温ポットを卓子に置いた。
[それでは、こちらの者をご紹介しましょう]とダイチは右手を差した。
[最初に申し上げますが、この者は中国語がまったくできません。閣下、恐れ入りますが、通訳機のご用意をいただけませんでしょうか]
熱い茶の入った茶碗と保温ポットを持ってきたアシスタントに、周光来は通訳機の用意を命じた。彼女がイヤフォン式のデバイスを持ってきて、周光来は左耳に装着した。
[この女性はどこかで見たような顔をしていると思うのだが、気のせいかな]と周光来。
[いえ、気のせいではないと存じます]とダイチ。一息ついて続ける。
[この者は、私のいとこです]
しばらく思いを巡らせた後、周光来は目を大きく開いてヒカリの顔を指さした。
[そうか。この女性は楊守の孫ということか。確かに、よう似た顔をしている]
ヒカリは、微笑みを浮かべながら言った。
「ニン・ハオ。わたしは楊守ことミヤマ・マモルの孫で、ミヤマ・ヒカリと申します」
[亡くなった楊大地の妹に、そっくりなんですよ。シカリは]と周光立。
[彼女は爺さんに似ておったからな。それで貴女のことは「シカリ」と呼べばよいのかな?]
「はい。こちらの方々にそう呼ばれています」
[それでシカリも、ネオ・シャンハイから来たということかね?]
「いえ、わたしはネオ・トウキョウから参りました…」と切り出して、ヒカリは生き残ってから上海へと向かい、武昌に辿り着くまでの顛末を話した。母の形見の天然アレキサンドライトのリングを買い叩かれたくだりに、周光来は特に興味を引かれたようだった。
ヒカリの、高儷より長い話にも頷きながら耳を傾けていた周光来は、ヒカリが話を終えると大きく息をついてから言った。
[楊守の残した写真が、孫のシカリを武昌に導いたのだな。巡り合わせとは本当に面白い]
「はい、自分でも本当に『面白い』と思っています」と、しみじみとヒカリ。
[ところでシカリの家族はどうされたのだね]
「ミヤマ・マモルの双子の弟でわたしの義理の祖父であったミヤマ・マサルをはじめ、両親、夫もわたしより先に安楽死処置を施されました。生き残ったのは息子で、10歳になったオガワ・マモルです。火星に移住する一員に選ばれて、いまは火星の居住区に住んでいます」
[そうか。楊守の弟も安楽死したのだな。シカリも悲しい別れを重ねたのだね。ご子息は、貴女が生き残ったことを知っているのかね?]
「先日、メッセージをやり取りしました」
周光立が話を進める。
[さて、2人の話をお聞きいただいたところで、より核心的な話に進めたいと思います]
察しているという面持ちで周光来がゆっくりと話す。
[「星」…のことだな?]
[その通りです。詳しい話をシカリと楊大地からしてもらいましょう]
まずはヒカリが話した。
「星」は「マオ」と呼ばれ、約1年後の2290年6月半ば頃に地球に衝突する予定であること。直撃を受けた地点は一瞬のうちに蒸発してしまい、地球表面の約5分の1は一瞬で焼き尽くされ、約半分には焼けた岩石が降り注ぎ、ほぼ全域に台風の風速を上回る猛烈な衝撃波が襲うこと。また、衝突の場所が海の場合、猛烈な津波が陸地を襲うと予測されること…
「衝突のことはインパクトといわれますが、今まで申し上げたインパクトの直接の影響に加えて、巻き上げられた物質が大気中に留まることで『衝突の冬』という気候変動が起こり、地球全体が少なくとも数十年に亘って太陽光の不足と気温低下に見舞われ、また酸性雨、オゾン層の破壊も起こるとみられています」
[ということは、仮に直撃を受けなくとも、シェルターでやり過ごせるようなレベルの話ではないのだね]と少し擦れた声で周光来が確認する。
「そういうことになります」とヒカリが答える。
[で、お前らはどうしようを考えているのだね?]
周光来の質問にダイチが答える。
[上海、武漢、重慶、成都の合わせて約46万の住人を、インパクトまでにネオ・シャンハイに避難させるしか、道はないと考えています]
[確かにここらにおっては助かる見込みはない、ということはわかる。だが、ネオ・シャンハイで大丈夫なのか? 直撃を受ければ「みんな揃ってあの世行き」ということにはならないのかね?]と、周光来がさらに質問する。
[実は、ヒカリのネオ・トウキョウ時代の上司が月の連邦本部の幹部で、その人物に最新のインパクト地点の予測情報を送ってくれるよう依頼していました。その返答が昨晩、ヒカリのところに届きました]と言うと、ダイチはヒカリにその内容を話させた。
「インパクトの確率が70%以上と見込まれるエリアが、南アメリカの西の赤道より少し南の海上から、アフリカの少し東の海上を長径とする楕円を描くよう、太平洋・中南米・大西洋・アフリカ・インド洋に亘って、広がっているとのことです。そのエリアの最も上海に近い場所との距離は8000kmほどあり、上海が直撃される確率は相当に低いようです。ネオ・シャンハイは地球上でも比較的安全な場所ということになります」
[この予測は、こちら側ではまだ我々4人しか知らず、お話をしたのは閣下が初めてです]とダイチ。
[なるほど。全員が助かるための選択肢としては、現時点でもっとも合理的ということだな]と言いながらも、厳しい表情で周光来が続ける。
[しかしネオ・シャンハイを使うには、国際連邦に認めてもらわねばならんと思うが?]
[まず、連邦側ですが、上海、武漢、重慶、成都が意思を統一して申入れれば、聞く耳は持ってくれると思います。懸念されるのは…]と言ってダイチがヒカリを促す。
「問題は連邦のマザーAIがどのような判断をするかです。国際連邦の多くの人間はマザーAIに逆らうことを極度に恐れています」
[彼らにしてみれば生命に関わることだからな。わからんではない]と周光来。
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8月12日にPITでヒカリから、インパクト地点の予測についての情報入手の依頼を受けたアーウィンは、さっそく、懇意にしている科学技術局観測予報部長のハーニャ・ゼレンスカヤに相談し、マザーAIによる最新の予測データの入手を依頼した。数日たって返ってきた結果は「現時点では予測不能」とのこと。1年を切っている段階で「まったく予測不能」とは、さすがにいかがなものか、と考えたアーウィンは、ゼレンスカヤと連れ立って、旧知である科学技術局長のヌワンコ・オビンナに話をした。連邦統治委員会事務局でのキャリアを科学技術局員として始めたアーウィンの、最初の直属の上司だったのが今のオビンナ局長である。彼は、アーウィンの今の上司である情報通信局長のジャミーラ・ハーンも交えたミーティングを、できるだけ「目立たない」形で行うことを提案した。マザーAIに察知されないようにするためである。
アーウィンが、ミーティングの時間と場所として選んだのは、翌日のランチタイムのカフェテリアだった。隅っこで声を落として話した。オビンナとハーンの両局長からアーウィンに、なぜいまインパクト地点の正確な予測情報を必要としているか尋ねられ、アーウィンは「他言無用」と断りつつ、ヒカリのこと、彼女が中国大陸の「AOR」の大きなコミュニティーで暮らしており、ネオ・シャンハイへの避難について、打診を受けていることを話した。インパクト地点の情報は、ネオ・シャンハイの危険度を推し量る目的で必要になる。
ゼレンスカヤから提案があった。観測の生データを観測機器から直接抽出し、マザーAIに接続されていないマシンを使って解析を行ってはどうか。プログラムを一から作る必要があるが、マザーAIの予測結果を検証することができる。他の3人は即座に賛成した。ゼレンスカヤの観測予報部から1名、アーウィンの情報支援部から1名を選抜して、任に当たらせることにした。同時に情報基盤部に、マザーAIに接続されていないマシンで、なるたけ新しくて処理速度の速いものを、使わせてもらう根回しを行うこととした。
観測予報部からの1名、フアン・マリーア・マルティネスは、天文学博士号を持つ優秀なスタッフ。情報支援部からの1名、トンチャイ・シリラックは、3か月前まで情報開発部に勤務していたプログラミングのエキスパート。そして情報基盤部から提供されたサーバーは、オフィス棟の地下4階のストックスペースに保管されていた、製造後50年経った年代物…「マザーAIに接続されていないマシン」ということでは、これが限度だった。
マルティネスとシリラックの悪戦苦闘は2週間続いた。マザーAIに覚られないよう観測結果を慎重に抽出したマルティネス。シリラックは何度も深刻なプログラムエラーに遭遇し、そのたびに最初からやり直した。シミュレーションができる段階になると、二人でなんども検証を繰り返し、極限まで予測精度の向上を図った。
何度かの中間報告を経て、9月3日の朝にストックスペースで、アーウィンとゼレンスカヤに対して最終結果として報告された予測内容は、「インパクト確率が70%以上となるのは西端が西経120度、東端が東経60度の南緯10度の線を長軸とし、北端が北緯30度、南端が南緯50度の西経30度の線を短軸とする楕円形のエリア」というものだった。ランチタイムのカフェテリアでオビンナとハーンに報告し、確認を受けたこの結果と想定される上海への影響について、即刻アーウィンからヒカリに対して知らされた。
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[こちら側の現在の問題は、上海の意思をどう統一するかです]と周光立が会話に加わる。
[武漢、重慶、成都についてはダイチたちが、一部で荒療治もしつつ、意思を統一してくれました。上海のほうは私が情報を収集・分析し、キーマンへの働きかけも行っていますが、かなり厳しい状況です。ご存じの通り長老・最高幹部クラスにも国際連邦を快く思わない者がおり、また末端のほうでは「AF党」を名乗って徒党を組む連中も出てきています]
[「AF党」のことは私も耳にしている。しようのない連中だ]
[多数決で押し切り、反対する者を実力で制圧することも可能でしょうが、大量の住民を限られた期間でスムーズに避難させるには、禍根を残すような方法は取りたくありません。私は、あくまで説得でもって進めたいと考えます]
[いまとなっては、そういう連中に口実を与えた張本人が、私ということなのかもしれんな]
しみじみと周光来が言う。
「でもネオ・シャンハイに合流していたら、『ケア』されていたかもしれません」とヒカリ。
[それもそうだ。皮肉なものよのう]
周光来が、自分の茶碗にポットから熱い茶を注いだ。茶碗をゆっくりと口へ運び、一口啜る。茶碗を置くと話し出した。
[話はわかった。私に、上海の反対派を説得するために一役買うように、ということだな]
[仰せの通りです、お爺さま。「周光来のひとこと」をいただきたいのです]
[しかしこの体では、そうそう頻繁に出ていくわけにはいかんぞ]と左足をさすりながら周光来が言う。
[ひとまず、直接お会い頂きたいのは長老たちです。幹部連中にはビデオメッセージを考えています。本格的にご出馬を願うのは、連邦との話がうまく行った後を考えています]
[ビデオメッセージは良いが、原稿はどうしようかの。私は自分ではよう作らんぞ]
[私にお任せ下さい]高儷が言う。
[インタビューをもとにスピーチ原稿を作る業務を、ネオ・シャンハイでやっていたことがあります]
そうこうするうちに、お昼の12時となった。
(つづく)