生き残されし彼女たちの顛末 第2部 第34章 艶姿
アシスタントの女性が大会議室の扉をノックする。9月19日木曜日の16時少し前。
[お客様のご準備ができたとのことです]
[お通ししろ」
本日のホスト、田国勝(ティエン・グオション)が命じる。白いクロスがかけられた長机の一方に、ホスト側の人間が田国勝を中央に7人座っている。うち1人が女性。
扉が開いて、まずは周光立、続いてダイチ、そして…
長机を挟んで田国勝の正面に立った「彼女」。左に周光立、右にダイチが立つ。
ホスト側6人の男性の目は、旗袍(チャイナドレス)を纏った「彼女」に釘付けになった。
旗袍は銀朱色のロングドレスで、花と葉の文様が刺繍で散りばめられ、膝下の左側に大輪の牡丹の花が染め付けられている。
彼らの目が釘付けになっているのは、もちろん牡丹の花ではない。
下半身の切れ込みから覗く、すらりと伸びた長い脚。シルバーの靴のヒールは足首の細さを強調するのに十分な高さ。スリムなボディラインと絶妙に調和する胸元とヒップラインの膨らみ。ドレスよりさらに一回りは細く見えるウエストライン。
目を顔に転じると、少し茶色を帯びた黒い瞳に長い睫毛。目元に薄くひかれた紫のアイシャドウとアイライン、そして、うっすらと塗られた頬のピンクのブラッシュが、三代前にロシア人の血が混じっているという「彼女」の、くっきりとした顔立ちを引き立てる。やや薄めの唇の存在感を誇示する真紅の口紅。ショートの黒髪を低い位置で「お団子」にしたヘアスタイルは、すっきりとした綺麗な襟足を露にしている。
[あ、あんた…張子涵…なのか?]
50代の男性である田国勝が大きく目を見開きながら言う。
1時間ほど時間を遡る。
どんよりと曇った空の下、ほぼ東西に広がる上海黄浦街区の北東端あたりから黄浦江に沿ってさらに北北東に広がる虹口街区。その中央を走る虹口東西路を1台のタクシーが、街区の外れの方に向かっていた。ドライバーは李勝文。ヒカリの紹介で知り合って以降、周光立はことあるごとに彼の車を利用することになる。
「持盈(チーイン)商業流通集団の本部は第10地区の外れにある]と後部座席右側の張子涵。履き慣らしたデニムにメンズのゆったりとした白いシャツ。いつも通りの「男の子」の装い。何が入っているのか、ちょっと大きめの、しかし軽そうなバッグを膝に置いている。
[車に乗れないときは、持盈までループのバスに乗って行ったことがある。終点がちょうど本部なのさ]と張子涵。
[市内の乗合バスは、持盈のグループ会社が運航しているからな]と後部座席左側の周光立。
上海の街区には4系統のバス路線があり、虹口街区を起終点に黄浦街区の周囲をぐるりと運行する「ループ」が右回りと左回りの2系統。それから黄浦街区の中央を東西と南北に往復する「シャトル」が2系統、それぞれ東西二路と新中山路を運行している。
[縦横それぞれ100メートルくらいの広い敷地に、バスやトラック、配送車、バイクやらが並んでいる。その地下に本部があるんだ]
[それだけの敷地は街区では確保できないから、街外れにあるんだね]と助手席のダイチ。
[それとキャラバン・コネクションも、ここらを根城にしてるのが多いから、いろいろと好都合なんだろう]と張子涵。
[タクシー屋には、この辺はおいしくないんです。バスの本数が多いから]と李勝文。
そうこうしているうちに虹口街区の外れに入り、数分すると張子涵の言っていた「広い敷地」が見えてきた。トラックや配送車は、今日の仕事を終えたらしいものが多数駐車している。バイクは夜のデリバリーに備えて待機か。バスは、これから本数が多くなる時間帯のためか、運行準備に入っているものがそこここに見られる。
15時20分頃到着。敷地の入り口でタクシーを降りる。雨が降り始めた。
[じゃあ、適当に流してから22時頃めどに、こちらに着くようにしますぜ]と李勝文は言うと、クラクションを一つ鳴らして、来た道を戻っていった。
[田国勝董事長と16時の約束で来ました。周光立です]
[しばらくお待ち下さい]と受付の声。
オフィスへ下りるエレベーターの前で1,2分待っただろうか。エレベーターの扉が開き、3人の前にアシスタントと思しき女性があらわれた。
[ようこそいらっしゃいました。それではお申しつけいただいたお部屋へご案内します]
[じゃあ、着替えをするので。すまないが、お二人にはしばらく外でお待ちいただきたい]
用意された部屋に入るとすぐ、張子涵が言った。
[そうか、アポより早めに着いて控室を使うの、そういうことだったんだね]と周光立。
[いったい何に着替えるんだい」というダイチに向けて、手で払うようなそぶりをみせながら張子涵が言う。
[さあさあ、女子が着替えるんだから、男子諸君は早々に立ち去りなさい]
先生から「廊下で立っていなさい」と言われた小学生のように、なんともしまらない風で二人が部屋の外に立っていると、アシスタントがグラスに入れた冷茶を持ってきた。
[ありがとう。中は取り込み中なので放っといてくれていいです。それより…なにか腰かけるものをいただけませんか?]と周光立。
[かしこまりました]とアシスタントは言うと、近くの部屋から丸椅子を3脚持ってきた。
うち1脚に3つのグラスが乗ったお盆が置かれる。残りの2脚に腰かけると、二人はPITをチェックし始めた。
20分ほどすると、部屋の中から張子涵の声がした。
[お待たせしました。どうぞお入りあそばせ]いつもより2、3音ほど高いトーンの、気取ったような声。
扉を開けて周光立、ダイチの順に中に入るやいなや、二人とも一様にぽかんと口を開けて立ち尽くした。
顔と足元に交互に目をやる周光立。うなじのあたりに目が張り付いたようなダイチ。
[いかがでございますか?]と着替えとメイクのすんだ張子涵。いろんなポーズをとりつつ、相変わらず気取った声。
[…別人のよう、というか…いや失礼、こんな言い方…楊大地は見たことあるのか?]
[…私も初めてだ…そもそもこういう衣装を持っているということすら…知らなかった]
[母親の形見でね。サイズがぴったりだったんで、取っておいた]とふだんの声のトーンに戻った張子涵。
[いまの二人の反応を見て、これならいける、と確信したよ。今日の面子はあたしと相手方の一人以外は、田国勝董事長はじめ全員男性のはず]
[なるほど、なかなかの策士だね]と周光立。
[さらに効果的にするために、会合の最初のうちは張子涵には黙ってニコニコしておいてもらう、というのはどうだろう]
[了解。まあやつらの反応を見て、笑いがこらえられなくなるまで、ということでいいかな]
[それでいい。な、楊大地]
[…そ、そうだな]
幼馴染みである分、ダイチは「変身」のインパクトから抜けるのに時間がかかるようだ。ずっと「男の付き合い」をしてきた彼にとって、目の前の「女性」との落差が激しすぎる。
張子涵がグラスの冷茶を口に含んでから言う。
[さあ、あたしは準備OKだ。お二人はいいかい?]
[ああ]と完全に衝撃から立ち直った周光立。
[そ、そうだな]とまだ少し引きずっているダイチ。
[写真撮っておこう]と言うと、周光立が張子涵一人の写真をポーズを変えて3枚撮る。
アシスタントがやってきた。一瞬張子涵の姿に目をとめた後、周光立に向かって言う。
[そろそろ田国勝董事長とのお約束の時間ですが、ご準備はよろしいでしょうか]
[すみません。3人の写真を1枚撮っていただけませんか?]と言って周光立がPITをアシスタントに渡す。1枚写真を撮ると、PITを周光立に返す。
[ありがとうございます。では、よろしくお願いします]
[あの…席についてもよろしいでしょうか]と周光立が田国勝に聞く。
持盈商業流通集団本部の大会議室。持盈側の7人のうち男性6人は、まだ「張子涵の衝撃」から抜けられないでいるようだ。
[あ、ああ、これは失礼…どうぞお掛け下さい]と田国勝。
周光立、ダイチが立ち位置からそのまま前の席に着くと、一瞬間をおいて、旗袍を身にまとった張子涵が、そのスリムにしてボリューム感あふれる肢体を、さらにアピールするべく、前にせり出すような仕草をしてから、田国勝の正面の席に着く。
先ほどのアシスタントともう1人が茶を運んできて、各自の席の前に置く。
田国勝が、右隣に座った側近の董建昆(ドォン・ジェンクン)の肘をついて促す。
[え~、ほ、本日は…]素っ頓狂な上ずった声。
董建昆は「エヘン」とひとつ咳払いをして声を落ち着ける。
[本日は、周副総書記、武漢の楊副書記、そして武上物流の…チャ、張総経理におかれましては、えー、はるばる私どものところまでお越しいただき、恐悦至極…大変喜ばしく存じます。で、では最初に、董事長の田国勝からひとこと、申し上げます]
[…えー、黄美帆名誉董事長からお話しをいただき、今般の「星」の件について、ビジネスはビジネスとしてビジネスライクにことを進めるようにとのことで、こちらの張子涵総経理もご臨席賜り、ここはひとつ友好的に…]
[ぷあははははははははは…]
限界に達したらしい張子涵が、大声で笑い出した。
それに呼応するように、田国勝の左側2人目に座っている持盈側の女性が笑い出した。
[ははははははは…張子涵、「趣向がある」ってこういうことだったのね]
[はははは、そうさ、陳紅花]
[ははは、だったら、あたしも旗袍着てきたらよかった]
[いや、それだと効果がないから、今回はあたしだけにさせてもらったのさ]
[次回は二人揃って旗袍姿で、おじさま方に「夜来香」でもお聞かせしましょうか]
声の主は、張子涵と10年来の親交がある陳紅花(チェン・ホンファ)。30代にして「姉御」の雰囲気を醸し出している彼女は、5つあるキャラバン・コネクションの首領の一人、江東会の会長である。
二人の大笑いがきっかけになって、場の雰囲気は幾分落ち着いた様子。周光立は会合で何度か一緒になって面識のある田国勝と再会の握手をし、他6名とは初対面の挨拶と握手をした。ダイチは持盈側の7人全員と、握手をしながら初対面の挨拶をした。
(つづく)