2023年4月の聖書タイム「開かれた門」
by 山形優子フットマン
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。」
ーー マルコによる福音書16:1~4
みなさん、イースターおめでとうございます。冒頭の聖句はキリストの復活の場面です。「おめでとう」の後に、こんな話をするのもなんですが、注目していただきたいのは墓です。聖書に出てくる「墓」とは岩をくり抜いた洞穴式のもので、遺体を納めた後は、大変に大きな岩のような石で入り口を塞ぎました。岩戸の外側、つまり、こちら側は、生者の暮らす場所ですが、向こう側は太陽光線が届かない闇の空間、静かに崩壊が進む場です。
キリストが十字架にかかったのは金曜日、亡くなったのは、その午後。ユダヤの掟では「遺体を取り扱うと汚れる」とされていたため、特にその日の日没から始まる過越祭り前までに遺体を墓に収めなければならず、関係者は仮処置のように、防腐用の薬草と共に包帯のような布をぐるぐるとキリストの遺体に巻き、岩穴に安置し、岩戸で穴を塞ぎました。その後に自分達の身を清め、やっと祭りの安息に入ったのです。安息が明けた日曜日、キリストにつかえた女性たちは、自分たちの手で、もう一度、時間をかけて丁寧に敬愛する恩師の遺体をケアーしたいと願い、早朝まだ暗いうちに皆でゾロゾロと墓にやって来たわけです。来たには来たのですが、果たして「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」が問題でした。女手だけでは岩戸を開けるのは無理だとわかっていたのです。頑健な男たちが数人必要でしたが、安息明けの日曜早朝に、そんな人たちが墓で待っているわけはありません。死と生の境界線とも言える、この大きな岩戸を転がすのは土台、無理。キリストの復活預言を、誰かが仮に覚えていたとしても、「あーそう言えばイエス様は復活すると仰っていたから、墓の岩戸もご自分で開けるだろう」などとは思いも及ばなかったのです。「死の戸は一度、閉まったら開かない」が、世の常識です。
もう一度、ここで岩をくり抜いた墓を想像してください。ご存知ですか?キリストが産声をあげられた厩もまた、実は同じように岩をくり抜いたものだったのを。蓋となる岩戸こそありませんでしたが、厩も墓も基本的には同じ作り。つまりキリストは岩穴で生まれ岩穴に葬られたのです。「死」のために生まれ、「生」のために死んだ。そうです。墓の岩戸のような重い、重い、死の門を、大きく開け放ったのはキリストです。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」
ーー ヨハネによる福音書10:9
「門を出入りして牧草を見つける」とは、どういうことでしょうか。閉ざされていた門が開け放たれたため、境目がなくなり、羊達は良い草を求めて自由に動くことができるようになったのです。死は地雷を踏むように突然やってきます。けれども、キリストのおかげで、もう全ての地雷(罪)は撤去され、死の門の向こう側でさえ、安全な地雷フリーゾーンになりました。死の境界線がなくなったので羊たちはへっちゃらで、門を出入りして良いものをいただくわけです。
キリストは次のように言われます。
「わたしは羊の門である」ヨハネ10:7、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」
ーー ヨハネによる福音書10:10~11
「豊かに命を受ける」とは、恐れずに生を全う(まっとう)できることを指すのかもしれません。英国の女王であろうが、凡人であろうが、どんな人にも死は公平にやって来ます。しかし、死よりも問題なのは「死への恐怖」です。その恐怖が負のスパイラルになり、人を破滅、敗北へと追いやるのです。恐怖心がなかったら、私たちはもっと自由に勇気満々で毎日を過ごせるはず。生と死は表裏一体。死を恐れる人は実際、生きること自体を恐れているのです。
キリストはヨハネによる福音書の14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言っています。つまり、羊の門であるキリストは真理で、真理を知った羊(私たち)は、その真理に従って歩むので安全に導かれます。
また彼は次のように言ます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じるものは、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
ーー ヨハネによる福音書11:25、26
実はキリストの道には、生前も死後もないと言えるのではないでしょうか。あるのは今。只今から歩める、辿れる道だけです。彼の後をついて行けば、何があっても恐怖に足を引っ張られることはありません。嵐のような「恐れ」は静まり、心の浜辺には「平安」という満ち潮が寄せては返し、寄せては返し・・・・波はリズミカルな音と共に優しい弧を、波打ち際に描き続けます。それは、神様からの愛の挨拶、ラブレターです。
「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。『わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。あなたは力は弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。』」
ーー ヨハネの黙示録3:7~8
あらためて復活祭のお祝いをお届けします。