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神殿なんかいらない ①


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ちょうど汽車がゴーッと馳けて来る、その運動の一瞬間すなわち運動の性質の最も現われ悪(に)くい刹那の光景を写真にとって、これが汽車だこれが汽車だと云ってあたかも汽車のすべてを一枚の裏(うち)に写し得たごとく吹聴すると一般である。なるほどどこから見ても汽車に違ありますまい。けれども汽車に見逃してはならない運動というものがこの写真のうちには出ていないのだから実際の汽車とはとうてい比較のできないくらい懸絶していると云わなければなりますまい。
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上は、夏目漱石が『現代日本の開化』という文章の中にしたためた一文である。

写真の中の汽車は汽車には違いないが、「動いていない」以上、それは実際の汽車とはとうてい言えない――

まことに正鵠を射た、まことに素晴らしい指摘であると言えよう。

「定義を下せばその定義のために定義を下されたものがピタリと糊細工(のりざいく)のように硬張(こわば)ってしまう。…その弊所をごく分りやすく一口に御話すれば生きたものを故(わざ)と四角四面の棺の中へ入れてことさらに融通が利きかないようにするからである。」

漱石という賢者はこのようにも解説して、「実際に生きて動いているもの」を、棺桶のような「定義」の中に閉じ込めてしまう働きについて、100年以上も前にユーモラスな警鐘を鳴らしたのである。

いったい誰に対しての、なんのための警鐘であったのか――それを説くことはこの文章の主眼ではないため、それをしようとは思わない。(もしも興味があれば、自分の身をもって『現代日本の開化』という名文を読了されることをおススメする。)


これは単なる娯楽映画の中の話にすぎないが、

琥珀の中に閉じ込められた蚊の体内から、何千万年も前の時代に地上に生きていた動植物の遺伝子の検出に成功し、それを用いて現代に恐竜をよみがえらせるというサイエンス・フィクションがある。

そんなことをしてまでして、いったい何をしたかったのかと言えば、ずばり「恐竜のサーカス」を作り、世界中の人々に見世物として売り出して、金儲けをしようとしたわけである。

ところが、作中に登場する一人の良心的な科学者が、「そんなことは不可能だ」と翻意を訴える。

いわく、「いかなる生命も閉じ込めることはできない。その生態系を管理し、進化の過程をコントロールするなんて、絶対に”無理ゲー”だ」と。

で、物語はその科学者の警告のとおりに、「檻」の中から解き放たれた恐竜たちが暴走をくり返し、大惨事を招くことになってしまうのである。


この三流映画のような実例は、探せばいくらでもあるに違いない――歴史上の逸話の中にでも、その辺に転がっている取るに足らない日常生活の中にでも。

例えば、私のサラリーマン時代においても、似たようなエピソードがある。

当時の私は、仕事として、株だの証券だのいう世界の中に生きていた。

そんな世界について詳しく書かれた、会社からあてがわれた教材をマジメに読み込んだり、自発的に関連本を買いあさったり、または先輩上司の間に取り交わされる会話に耳をそば立てせたりしながら、無知な若者は日々貪欲に知識を吸収し、それを用いて顧客への助言や提案やをくり返していたのであった。

ところが、ある日出会った顧客の一人が、そんな若者の日々のひたむきな努力を嘲笑って、こう言った。

「相場のことは相場に聞け、という格言を知らないのか? 相場は生き物であり、チャートは常に動いているんだ。お前の会社の提案や、お前の読んだ本の中の知識なんかで、毎秒毎分生きて動いている値動きが予想できるようになるくらいなら、誰も苦労しない。一生サラリーマンをやり続けたいのならそれでもいいが、トレードで勝ちたい俺のような人間にとっては、お前の言っていることなんか糞の役にも立たないぜ」

私は、この顧客――とてもとても意地の悪い、口も悪い、目つきも悪い中年男だった――が、いったい私に向かって何を言っていたのか、当時は皆目理解できなかった。

がしかし、今はとてもとても、良く分かる。

すなわち、夏目漱石の言葉を借りるならば、若き私は「写真の中の汽車」を「汽車だ、汽車だ」と吹聴していたのであり、他方、まるでヤクザのようなかんばせの顧客は「ゴーッと馳けて来る汽車」を見つめながら、あるいは実際にそれに乗車した上で、「これが汽車だ」と考えていたわけである。


株や証券やFXやという世界に触れたことのない人には、この話はいささか想像しにくいかもしれない。

また平生、折れ線グラフや棒グラフやローソク足なんかで表現されている「相場」とか「チャート」とか「値動き」とかいうものを見つめていない人には、ここでいくら説明を試みても、ほとんど伝わらないであろう。

だからあえて、話のリアリティを犠牲にしてでも、専門的な単語などは用いずに、比喩的な表現に徹することとするが、

要するに、

いかなる美辞麗句によって着飾らせようとも、「投資」とか「取引き」とか「トレード」とかいう世界など、しょせんは切った張ったの勝負事にすぎないということである。いかなる壮大な演出によって見せられようとも、スポーツなんかもまた、その正体はただの児戯にすぎないように。

しかし、金を賭けた商いであれ子どもの遊戯の延長であれ、勝負事の中で「勝ち続ける」ために絶対に必要不可欠なものがあるとしたらば、それは「写真の中の汽車」のような、定義や知識なんかではない――まさに「いま動いているもの」を掴み取る、「感性」や「運動神経」のようなものの方である。

たとえば、

この世の人間関係においても、人を傷つける単語をいくら知っていようとも、いざという場面において、「人のいちばんいやがることを絶妙のタイミングと的確な描写でずけずけ言う」、”つぐみ” のような人間でなければ、とうてい口喧嘩にすら勝てはしない。

逆に、あらゆる言葉に精通していようとも、「きまった所へ出ると、急に溜飲が起って咽喉の所へ、大きな丸(たま)が上がって来て言葉が出ない」、"坊ちゃん" ような人間であっては、天網恢恢祖にして漏らさぬような正義の実行にみごと成功しようとも、ひっきょう田舎の中学校の覇権争いにさえ敗れ去り、職を捨て(失い)、その地から追いやられていくのがオチなのである。

ちなみに言うと、私は今も昔も、そして多分これからもずっと、坊ちゃんタイプの人間であり、それゆえに、口喧嘩においては、近所の子供にさえ勝ったためしがない。

かたや、くだんのヤクザのような顧客はきっと、生き馬の目を抜くような都(みやこ)の中で、何百年の昔から生き代わり死に代わった勝負師の遺伝子を生まれ持った種類の人間であったに違いなく、それゆえに、「トレードで勝つためには、お前の言うことなんか糞の役にも立たない」という、若き私がもっとも傷つくひと言を、的確なタイミングでずけずけと言ってのけたのである。


が、しかし、

ここから先が、この文章の主眼であり、私のもっとも書きたかった事柄になっていくのであるが、

そんな「勝負事にはまったくセンスのない」ような私であっても、かつて、「人のいちばんいやがることを絶妙のタイミングと的確な描写でずけずけ言う」ことに、もののみごとに成功したためしがあるのである。

当時の様子を、いま目の裏に思い出してみても、その時以上に胸がすくような、清々しい気持ちをば抱かされる。

というのも、ここで先に、はっきりと結論を述べておくが、

そのように振る舞った私は、「神の御心に適っていた」からである。

むしろ、「人のいちばんいやがることを絶妙のタイミングと的確な描写でずけずけ言わしめた」のは、わたしの神、イエス・キリストであったと、私は信仰によって確信しているのである。



つづく・・・


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