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あなたへ ②



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幸いなるかな、心の貧しき者。天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむ者。その人は慰められん。…
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くだんの「自己責任」とは、実にもって、好都合な言葉である。

ほかのだれでもない、ただひたすら「強者」のためにこそ、はたはだしく都合の良い、罪深きひと言なのである。

がしかし、

そんなふうに、まるで黄門様の紋所よろしく、「自己責任」を目睫に突き付けてみせる「強者たち」に対して、私はたとえば「立ち上がれ」だなどと、けしかけているのではない。

その証拠に、私はかつて私のための「強者」だった実のニ親に対しても、「立ち上がった」りなどしなかった。その他、かつて心身を恐れによって支配され、血と時と命とを盗み取られたいかなる者たち対しても、そうしなかったし、これからもするつもりはいっさいない。


たとえば、我が二親においては、子が親の期待に応えることとは、さながら納税のような義務であった。

それゆえに、ひとたび「納税」を怠るようなことがあれば、子に向かって「死ね」をくり返してきた。

まるでまるで、毎日毎月毎年に渡って、ありとあらゆる側面から民の懐に入ってしかるべきだった金を、税として取り立てておきながら、たとえば得体の知れない疫病が国中に蔓延したような「いざ」という時あって、

道路を作ってやった、新幹線をとおしてやった、図書館を作ってやった――だから、国に責任はなく、非も落ち度もない――お前の病苦であれ、失職であれ、困窮であれ、すべては「自助」によってなんとかしろ――というふうにのたまっても、一脈の恥も罪も悟らない禿げ頭たちのように、

腹を痛めて生まれさせてやった、ここまで喰わせてきてやった、衣食住を与えてきてやった――それゆえに、親には責任はない、非も落ち度もない――お前が苦しむとしたらば、すべてなべておしなべて、お前のせいであって、したがって親にだけはけっしてけっして迷惑をかけてくれるな――というふうに、

我が二親は、いつもいつでもいかなる時にあっても、右も左も分からなかった私に対し、そのような”アイ”をもって教え、諭し、戒めてきたのだった。

だから私は、肉親においても親戚においても、すなわち「家族」という組織の中においては、ついぞそのような蛮族としか邂逅することがなかった上に、今なおただの一人として、そんな手合い以外の者を知ることがない。

またそして、「家」の中であれ外であれ、麗しき極東の島国の内側であれ外側であれ、どこにおいてであれ、老若男女、人種国籍、宗教無宗教を問わず、同様の種族以外を知ることも、けっしてなかった。

ほんの一握りの例外であった、愛する人も、無二の友も、すでに失くしてしまった。

だから、今現在における私とは、この地上世界においてまさにまさしく天涯孤独の身分である。いや、今も昔も、おおよその場合において、そうに違いなかった。

それゆえに、

自己責任だとか自助だとか、誰か自分以外の者の口から、天涯孤独でありながらも今日も立派に生き延びているこの私にむかって、あらためて宣ってもらうにも、教え諭してもらうにも及ばない。

それに、たとえば『わたしは主である』という文章にも書いたように、そのような時代の、そのような国の、そのような組織の、そのような人生の中においては、私は常に勝者であった。

が、同時に、いつもいつでも敗者でもあった――その理由は、『ギブオンの夢枕』に綴ったとおりである。


だから、

だからこそ、私は「立ち上がれ」と言っているのである。

とりもなおさず、まるであなたの敵であるような誰かと、今度こそ「勝敗」を、「黒白」を、「雌雄」を決するために、今こそ立ち上がれ――――と?

いや、違う。

そうではない。

そんな、各時代の軽薄千万な活動家や、夢想家にも如かない革命家らの追い求めて来たような、可視の、現し世の、たまゆらの「勝利」なんかのためではない。

立ち上がれ、

なぜとならば、勝敗はすでに決している――からだ。

もう一度、わたしの神イエス・キリストに言えと言われたまま言っておく、

立ち上がれ、

なぜとならば、勝敗はすでに決したのだから…!

勝敗ばかりでない、あなたの求める真偽も、すでに明らかになっている。

真偽のみならず、是非も正邪も正誤も黒白も、あらゆるものが、もはや完全に分けられたのである。

それゆえに、

それゆえに、立ち上がれ…!

あなたはすでにあなたの戦いに勝利し、勝利によって死線を越え、死線を越えて、生き残ったのである…!


この、過去形の語り口に私の込めた思いとは、「永遠の判決が下された」という思いである。

いや、思い以上に、私が実際にすでに見て、知って、それがゆえに確信している、「未来」である。

すなわち、長かった法廷における争いもついに終わり、最高裁判官によって叩かれたガベルの音が響き渡った――

その「ガベルの音」こそが、「立ち上がれ」という響きなのである。

だから、

だからこそ、その「文句なしの審判」において、あなたが「永遠の勝者」であることを告げられた以上は、

どうしていつまでも「泣いたり、あきらめたり、伏したり」したままでいられようか。

どうして、絶対の勝訴を喜び、永遠不変の勝利を祝い、そのようにして立ち上がり、全身全霊をもって、「福音」を喜びおどらないでいられようか!

だから、

だからこそ、私は近頃ずっと、「喜べ、歌え、喜びおどれ」というふうに、くり返しくり返し、書き連ねているのである、

ほかでもない、ほかの誰でもない、勝利を手にしたあなたへむかってこそ…!


この私には、あなたのように、いっさいの「恐れ」がない。

恐れもなければ、恐怖も、不安も、思い煩いも、ありはしない。

たとえたとえ、今のこの瞬間の、目に見える可視の自分の人生の様相が、あなたのそれのように、悲惨極まるものでしかなかったとしても、

それでも、あなたのように、私の心には、いっさいの恐れがない。

たとえたとえ、得体の知れない流行り病のせいで混乱した社会経済の煽りを受けて、路頭に迷うしかなくなったあなたのような、傍目には「永遠の敗者」でしかなかったとしても、

もしも、そんなあなたの弱みに付け込むかのようにして、「あなたも神を信じるならば、きっと天国に行けるでしょう」だなどと、マッチ売りの童話みたいな説教をば垂れてみせる者がいるのならば、

はっきりと言ってく、わたしたちの神によって、ただとこしへに呪われよ。

もしも、

もしもあなたにおいて、そんなまやかしの甘言を尋ね求めているのであれば、あなたの町の目抜き通りにも、必ずと言っていいほど高々と聳え立っていることだろう「十字架」を戴いた建物の中をでも、明日にでも訪ってみたらいいでしょう――

すれば、「いえすさまはわたしたちのつみのためにしんでくださったのです、あーめん」というような”こころやさしきうそ”をば、イヤというほど耳にすることができるでしょうから。

がしかし、

わたしの神、もとい、わたしたちの神イエス・キリストと父なる神の憐れみによって、あなたにはっきりと言っておく、

そんなところには、いかなる救いもなければ、助けも、癒しも、赦しも、知恵も、なにもなにも、ありはしない。

なぜとならば、あなたもよくよく知るように、そんなところには、命を与える霊は宿っておらず、よって、死者の中からでも人を復活させるようないかなる力もない――

あなたを喜ばせ、歌わせ、あなたの心を立ち上がらせ、永遠に生かすべき、神の言葉が無いからである。


それでも、

それでもなお、「自己責任」のためにせよ、「悪」による悪のためにせよ、あるいは何人たりともどうすることもできなかったような不当な運命のいたずらのためにせよ、

このまことに苦しくして不可解なる人生において、ある日突然、深く深く傷ついたあなたは、往々にして真実の感動よりも嘘の蜂蜜よって、耐えがたき苦痛をば、麻痺させたがるものである。

それが、生得的に天涯孤独を恐れる人間の哀しき性であり、

あるいはまた、業とでも呼んだらいいのだろうか――。

けれども

けれどもなおさらもって、私が「喜べ、祝え、立ち上がれ」と呼びかけているのは、そんな憐れましき性を持って生まれ落ちた、あなたなのである。

私は、ただ、ただひたすらに、あなたのような人間のためにこそ、『喜びの神殿』を書いた。

可視の神殿よりも、不可視の神殿をこそ、自分の心の中に再建させたいと願い続け、そのために苦しみ続ける人――そんなあなたという人が、すでにもって勝利を手にしているのだという「福音」を、いかな拙き文章によろうが、はっきりとしっかりとくっきりと伝えるためにこそ…!

だから、あなたのための私の主張は、一貫している。

それは、私の信仰が一貫しており、けっしてけっしてその時代、その人生、その状況によって――あるいは誰かさんたちの所属する宗派の、教義の、神学の変遷によって――朝は右へ暮れには左へ、というふうにブレることがないからである。

だから、あなたがもし、

もし今の、この時代の、この瞬間にあって苦しんでいるのならば――

もし、汚れの極みとでもいうべき疫病が引き起こした恐慌のために、職を失ったり、生活を困窮させられたり、あるいは愛する人や、無二の友を奪われたり、

そのようにして、あなたの心を破壊され、粉々に打ち砕かれて、

今日に至るまでもがきにもがき、あがきにあがき続けて来てもなお、もはや自助のためにも、自己責任のためにも、どうすることもままならず、どうしたらいいのかも分からないで嘆き、呻き、ただ途方に暮れているばかりだというのならば――

ああ、あなたよ、

それゆえに、

それがゆえにこそ、喜べ、歌え、祝え、踊れ――!


幸いなるかな、心の貧しき者――天国はその人のものなり。幸いなるかな、悲しむ者――その人は慰められん。幸いなるかな……

このイエス・キリストの言葉とは、いったい、いまを苦しみ悶えているあなた以外の、誰のための言葉であろうか。


もしもあなたが、この私のように、右も左も知らない幼き頃から「山上の垂訓」のこの言葉に慣れ親しんで、あるいは今もなお、このキリストの言葉の実現をこそ祈り、願い、尋ね、探し求めているのならば、

ああ、あなたよ、あなたこそ、幸いなるかな…!


「幸いなるかな」という言葉は、今日の、今の、この瞬間のあなたのためにこそ、かつて二千年以上も前のかの日にあって、神自身から告げられた、あなただけのための神の言葉なのである。

それ以外に、あなたが聖書なんぞに触れた理由が、どこにあるだろう。

あなたがかつて、その飢え渇いた心をもって聞き及び、今もまた、当時よりもずっと清く、柔和な心をもって聞いているこの神の言葉とは、

今日、あなたのために、あなたの身の上に、実現したのである。

そのようにして、イエスがキリストであり、キリストがイエスであることを、あなたが知るようになるために。

そのようにして、イエスがキリストであり、キリストがイエスであることを知ったあなたが、イエス・キリストの父なる神からも知られるようになるために。



つづく・・・


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