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聖なる神、熱情の神


――
ヨシュアはしかし、民に言った。
「あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである。 もし、あなたたちが主を捨てて外国の神々に仕えるなら、あなたたちを幸せにした後でも、一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くされる。」
――


画竜点睛という言葉がある。

まことによくぞ言ったものであり、芸術の創作に携わっている者であれば誰でも経験する、「最後のひと仕上げ」のことである。

これが中々どうして、ひと苦労なのである。

みごと決まれば、作品は最高の仕上がりとなってくれるけれども、そうできなかった日には、「死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする」という言葉のとおりに、それまでの労苦はけっして報われることなく、すべてが水泡に帰してしまうからだ。


それゆえに、

私は子供の頃から、人の生き様よりも死に様について、より関心を寄せて来た。

そうして、ご多分に漏れず、イエス・キリストなる人物についてもそのような見方をして来たと言って、さしつかえないであろう。

だからというわけでもないのだが、

『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ』や、『父よ、我が霊を御手に…』という文章を私がしたためたのは、必然であったと言える。


イエスなる人物とは何者か――?

すなわち、神に見捨てられた人の子、である。


『雨あがりて』という文章においてもはっきりと述べたように、このひとつの重要な、あまりに重要な真理について、己の身と人生をもってたどり着いた生身の人間に、私は私以外でついぞ出会ったためしがない。

出会ったためしがないから、「エロイ、エロイ、、」「父よ、我が霊を、、」といったイエスの今わの際の言葉をこそ、この地上にイエスが残した言葉の中でもっとも重要なものだとした文章にも、私は私以外の筆によるものの他には、けっして読んだことも聞いたこともないのである。


あらかじめ断っておくが、こんなことを言って、私は私以外の誰かに向かって、自身の推薦を試みようというのではけっしてない。

むしろ、「イエス・キリスト」を推薦しているように見せかけながら、その実、おらが村の宗派だ教義だ神学だ教会だといったシロモノをばやっきになって押し広めようとしているのは、この世のユダヤ教だのキリスト教だのいう蜘蛛の巣に棲みついた、祭司だ長老だレビ人だ神父だ牧師だ伝道師だ宣教師だ教徒だクリスチャンだのいう恥ずべき手合どもの方である。

その証拠としても、分かる人には分かるのである。

さながらモーセの後継者たるヨシュアが、その晩年にあって、「わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」と言ったイスラエルの民に対して、「お前らじゃ無理」と言い切ったように、

毎日聖書を読んで、教会であーめん垂れて、はれるやを歌いあげ、しゃろーむを祈祷し、奉仕に宣教に伝道にと明け暮れていようとも、

信仰の代わりにイスラエル古代史の書かれた参考書を握りしめて聖書を読み込んだり、信仰のかわりにヘブライ語をもって神の言葉を理解しようとしたり、復活したキリストよりもユダヤ人イエスを知ろうとしたり、命の霊たるイエス・キリストよりも地上のイスラエル国家なぞを追い求めたり、父なる神の憐れみよりも無意味にして毒性の教会のバプテスマを施したりしているような蛇や蝮の子らどもにして、

「わたしたちもイエス・キリストに仕えます。イエス・キリストと父なる神こそ、わたしたちの神です」だなどとうそぶいてみせたところが、

「お前らなんかじゃぜったいに無理ゲー」というふうに、この私もまた、はっきりとはっきりと切言するまでなのである。


分かる人には分かる――とは、

裏を返せば、

分からない者にはけっして分からない――

という厳然たる事実となる。

つまりは、偽物はしょせん偽物で、バカはひっきょうバカでしかないということだ。

それゆえに、

いかに割礼を受けようが、戦(いくさ)で敵を打ち破ろうが、嗣業の土地を割り当てられようが、

老いたるヨシュアの言ったように、かつてのイスラエルの民ごときでは、「主なる神に仕えることはできない」のである。

私は軍の指揮官であり、民の指導者であり、モーセのように大いなる者として知られていた存在から、まるで遺言を残すかのように、そんなふうに言われねばならなかった当時のイスラエルに対して、いささかの同情も抱くことがない。

というのも、

四十年に及んだ荒野の旅路を終え、二つに割れたヨルダン川を渡り、その向こう側においてくり返された数多の戦争の只中にあって、たとえば天から大石のような雹が降ったり、太陽が天蓋に留まるような奇跡の数々を見届け、それらによってこそ勝利を得続けてきたにも関わらず、

「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」

などというふうに、あらためて言われねばればらなかったほど、ヨルダンを渡ったイスラエルの民とは心そぞろで、忘れっぽく、苦難が過ぎ去れば平気で異国の神々を慕って礼拝するような、不誠実な民であったからである。

これとまったく同様に、

いかに毎日聖書を読んで、教会であーめん垂れて、奉仕に宣教に伝道に…を何十年何百年何千年くり返そうとも、

当世のユダヤ教やキリスト教やといった世界の構成員たちにいたっては、なおさらのこと、私は敬意はもとより、一掬の憐れみをも覚えることがない。

なぜとならば、

これまでももうイヤというほどくり返してきたように、「イエス・キリスト」を推薦しているように見せかけながら、お前の教会を推薦し、無意味にして毒性のバプテスマで献金をせしめとるという行為とは、かつてのイスラエルの民の忘れっぽい漫心や、不誠実な背信やよりもさらにいっそう業の深い、この世でもっとも悪質な罪にほかならないからである。

人と神とに対し、そのような「死に至る罪」を犯し続けている蛇や蝮の子らに対し、どうしてわたしの神のもっとも美しく、偉大な力の源であるところの「憐れみ」を覚えたりなどできようか。


だからヨシュアは、己の死を前にしてこうも言ったのである、

「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」――。

私ははじめてこの言葉を聞いた時、民の指導者として、いささか無責任な響きを帯びていはしまいかと思ったものである。

がしかし、今ははっきりと、そのように言った老兵ヨシュアの心情がよく分かる。

お前らはお前らの神々に仕えろ、それでも俺は俺の主なる神に仕えるのだ――

ヨシュアはこのように宣言して、心そぞろなる民たちの、その定まらない心にむかってこそ、永遠の告別を告げた。

すなわち、

荒野に生まれ、荒野で育ち、苦難の旅を終えてなお、来る日も来る日もくり返される戦(いくさ)から戦のために、終生、その命をかけて戦い続けてけて来た彼の生き様そのままに、

ヨシュアは最後の最後まで、主なる神の戦いを戦いぬくためにこそ、自分自身を聖別しつづけたのだった…!


自分自身を聖別する――

これがヨシュアの生き様であり、死に様でもあった。

なぜとならば、

主なる神とは聖なる神であり、熱情の神である――

これこそ、ヨシュアがその人生を通して肌で知り尽くし、霊をもって覚えさせられて来た神の本質であったからだ。

それゆえに、

もしも、そんな主なる神の御声に聞き従わず、わずかでもその言葉に悖るのならば、けっして許されることがなく、いっぺんの憐れみもかけられることもなく、徹底的に滅ぼし尽くされる――しかなかった。

もしも、自分が敵の馬の足の筋を切り、戦車を焼き払うことがなければ、敵が自分の足の筋を切り、戦車を焼き払った。

もしも、自分が剣をもって全住民を撃ち、滅ぼし尽くして息ある者を一人も残さず、火で焼くことがなければ、彼らが自分たちを撃ち、一人も残さず火で焼かれた。

もしも今、自分が相対した敵をことごとく滅ぼし尽くすことができぬのならば、自分が打ち殺されて、首を踏みつけられ、日が落ちるまで死骸を木に吊るされ、しまいに洞窟に投げ入れられて、石をもって塞がれた。

もしも――もしも――

そんな、まさにまさしく「生、さもなくば死」という容赦なき二者択一の日々を生きながらえて来た、真の戦士ヨシュアの死に様は、それがゆえに、

「あなたたちは主に仕えることができないであろう」

「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」

という言葉をもって、「聖別」という画竜点睛を結んだのだった。…


それゆえに、

この私もまた、わたしの神イエス・キリストと父なる神の心のとおりに、自分自身を聖別するものである。

もし、その者が「主を捨てて外国の神々に仕えるのならば」、

体に割礼があろうが、イスラエル民族の一員であろうが、そのために嗣業の土地を割り当てられていようが、そのようないっさいの地上的事実が、

その者を主なる神の裁きから救ってくれることなど、けっしてない。

なぜとならば、

聖なる神であり、熱情の神である神のその声に聞き従わず、その言葉の通りに行うことのできぬ者とは誰であれ、「ヨルダンの向こうの敵のように」、徹底的に滅ぼし尽くされるしか道はないからである。

これとまったく同様に、

わたしの神イエス・キリストとは聖なる神であり、父なる神とは熱情の神である――

ヨシュアのように己の肌と、己に与えられた”霊”をもってこれを知り、同じ真理によって今日も生きている者はだれか?

それはこの私である。

だからこそ、今日もまた、「生、しからずば死」という峻厳たる二者択一の戦いを強いられても、私はけっして恐れることがない。

それは、

「死ぬときはただ死ぬまでさ」というような開き直りをしているからというよりも、

信仰によって、ただただ信仰によって、強く、雄々しく生きているからである。

信仰とは、聖なる神の声を聞き分ける心と、熱情の神の言葉のとおりに行う力のことであり、

これこそ、自分自身を聖別する力なのである。

だから、

わたしの聖なる神イエス・キリストと、わたしの熱情の父なる神に言えと言われたまま、はっきりと言っておく、

信仰とは、無意味にして毒性の教会のバプテスマを喜ぶような礼拝のことではけっしてなく、

聖別とは、血肉、人種、民族、系図的なイスラエル国を支持する教義のことでもない。

信仰の代わりにイスラエル古代史の書かれた参考書を握りしめて聖書を読み込んだり、信仰のかわりにヘブライ語をもって神の言葉を理解しようとしたり、復活したキリストよりもユダヤ人イエスを知ろうとしたり、霊なるイエス・キリストよりも地上のイスラエル国なぞを追い求めたり、父なる神の憐れみよりも無意味にして毒性の教会のバプテスマを施したりしているような、この世のユダヤ教やキリスト教という世界とは、

すべてなべておしなべて、「ヨルダンの向こうの敵」のように、ことごとく滅ぼし尽くすべき「敵」であり、

エリコやアイやハツォルやの国々のように、いっぺんの憐れみも得ることなく、徹底的に滅ぼし尽くされるべき、「神と人の敵」である。

この世のユダヤ教だのキリスト教だのいう世界とは、

この世でもっとも悪質な己が罪のためにこそ、

ヨルダンの向こう側の敵国よりも、ヨシュアの死後ものの見事に堕落していった漫ろにして不誠実な心をしたイスラエルの民よりも、

ずっとずっと凄惨にして厳粛なる結末をば、その身をもって味わい知ることとなるであろう。


私は信仰によって、ヨシュアのように、人生最後の日まで、自分自身を聖別する。

はっきりと言っておくが、私はすでに徴兵されている。

すでに徴兵され、招集され、戦いに備えて、自らを聖別している。

私は、わたしの神イエス・キリストの声を聞き分け、父なる神の御心に聞き従って、明日に備えて自らを聖別した者なのである。

それゆえに、

かつてイスラエルの民がヨシュアによって率いられたように、

わたしの神、万軍の主たるイエス・キリストによって、この私もまた、いつでも出陣することができるのだ…!


蛇足の極みでしかないが、

「万軍の主に用いられた無価値な人間ほど、勇猛果敢な戦士はない」

と、わたしの聖なる神イエス・キリストと、熱情の父なる神から言えと言われたままに、はっきりと述べておこう。

なぜとならば、

「その者は父なる神の憐れみによって、死者の中から復活させられたイエス・キリストに連なる者だからである」

というふうにも。

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