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人の戦い、神の戦い


――
彼は言った。「すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。『この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。 明日敵に向かって攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたたちはエルエルの荒れ野の前、谷の出口で彼らに会う。 そのときあなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ。ユダとエルサレムの人々よ、恐れるな。おじけるな。明日敵に向かって出て行け。主が共にいる。』」
――


上の言葉は、かつてメウニム人の一部と手を組んだモアブ人とアンモン人が、ユダ王国へむかって攻め上ろうとした時、時の王ヨシャファトが民とともに断食し、主なる神を求めたその祈りに応えた神の言葉である。

私は、およそ一年前の今日この頃、同じ言葉に突き動かされて、『万軍の神よ』という詩歌を詠んだ。

詩歌を詠んだなどいうご大層な言葉遣いをせずともいい。ただ、主なる神を賛美するにあたってなお、けっして”遊び心”を忘れないような「替え歌」を作ってみたにすぎなかったのだから。

さりながら、

わたしの神イエス・キリストと父なる神の御前において、はっきりと確言するものであるが、

こんな一粒の麦のような替え歌であっても、万軍の主たるキリストは、それをいたく喜んだ。

それは、当時の、からし種ひと粒ほどの我が心の上にも、復活したキリストの霊が激しく降ったようになり、そのようにして、イエスは私にこの詩を詠ませたからである。

今でもはっきりと記憶しているが、私が『万軍の主』という詩を書いたのは、じつに皮膚も肉骨も凍えんばかりの、真冬の夜半のことだった――外には大輪の雪花が卍巴に降りつのり、窓辺にぶあつい層を成すようであった。夜が明けても白鯨の息吹のような山おろしが、ブリザードのごとく唸りを上げた――が、私はそんな闇の中で、寝床から這いだすと、階下へと降りて行って、己の詠んだ詩を歌いあげながら、一人、しらしら明けまで踊りつづけたのであった。…


それゆえに、

それから一年という星霜を経た今になって――それはまるで一日のような一年であり、千年のような一年でもあった――あらためて同じ詩を引っ張り出して来ては、わたしの神イエス・キリストは私に向かって、例によって例のごとく、「書け」をくり返すのである。

信仰という生けるイエスの霊によってかんがみれば、それもまた、必然の成り行きであると言えるかもしれない。

というのも、私が『替え歌で、賛美』という一連の”お遊び”をし始めたきっかけというのが、ほかでもない、このテコアの荒野における戦いを詠んだことにあったのだから。

さらに言うなれば、

私が「書け」という”声”を聞き始め、ためにそれから一年以上、毎日のようにここに積み重ね、重ね積んで来た、ありとあらゆる文章を書き始めたすべての始まりというのが、かつてのベラカの谷の勝利を喜び祝った、同じ詩歌であったのだから――。

それゆえに、

私は今の今まで、その詩に「ヨシャファトの戦い」という副題を付けていたが、今日、それを改め、「神の戦い」と置きかえた。

そこには、「これはあなたたたち(人)の戦いではなく、神の戦いである」という神の言葉に激しく胸打たれ、まさに一年前の今日よりも、なおいっそうとめどなく溢れいずるような喜びと、尽くしきれない感謝とを心に抱かされたからであり、

さらには、

私が幼き頃より探し求め、ついに見出し、またこれからもずっと見出しつづけることが定められている「極めて良い神の国」にあって、代々とこしへに歌いあげるであろう永遠の賛美の歌の調べもまた、込められたからである。


それゆえに、

私は今日をもってあらためて、はっきりとはっきりとこの心に感じ入り、思い知った。

私が筆を執り、書き出したその瞬間から、わたしの神イエス・キリストは、この私のために、すでに「勝利」を与えていたのだということを――。

すなわち、かつてヨシュアとイスラエル民たちが、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す」と言われたように、

また、ヨシャファトとユダの民たちが、「堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ」と言われたように、

この私もまた、「書くという戦い」に打って出るその前から、「恐れるな。おじけるな」という神の言葉を、自分の詠んだ(詠まされた)詩歌として、与えられていたのであった。

だから、つい先日もしたためた『あなたへ』という文章において、くり返しくり返し「立ち上がれ」だの、「喜べ」だのと主張しては、

その理由を「すでに勝利したからだ」「すでに勝訴したからだ」「あなたこそは永遠の勝者であり、とこしへの勝利という福音を喜び祝う者だ」と確言しつづけた者とは、

書いた本人たる私ではない――

私をして書かしめた、わたしの神イエス・キリストであった

そのようにして、

書くことによって、

なんどもなんどもなんども書くことによって、わたしの神イエス・キリストと父なる神とが、書き手である私と、その私が信仰によって愛しているまだ見ぬあなたとに向かって、「この戦いは神の戦いである」という、託宣を与えていたのであった。


それゆえに、

私は今日、ふたたびにして、この身をもって、思い知らされた。

すなわち、わたしの神イエス・キリストと、父なる神以外には、天にも地にも、どこにも「神」などいう存在のいないことを、はっきりとはっきりと、食み、味わった。

驚きと、喜びと、賛美と、感謝と――それらすべてを内包し、互いに交じり合い、重なり合って増幅しつづけるような真実の感動によって、

イエスはキリストであり、キリストはイエスであるということを、

そして、わたしの神とはイエス・キリストの父なる神でしかないということとを、全身全霊において確信し、信仰を強められ、固められ、生き生きと若返らせられた。



私はこれまでずっと、自分のために定められた道を走っていた。

私は今日までずっと、空を打つような拳闘をしてきたわけでもなかった。

無二の友を失って、悲しみに打ちひしがれて、路頭にさ迷いながら、『友よ、我が霊とともに…』を書きなぐった私の魂のために、イエスは『幻を書き記せ』という回答を与えた。

たった一人の親友の命を奪った者たちへの復讐を誓った『明日に備えよ、自らを聖別せよ』に対しては、『聖なる神、熱情の神』をもって答え、

『ギブオンの夢枕』も『わたしの神、わたしたちの神』も『喜びの神殿』も『ヨハネの洗礼、キリストの洗礼』も、すべてすべて、そうであった。

すなわち、

『書くことによって、ただ書くことによって』という文章の中で、私がずっと祈り、求め続けて来た託宣は、

今日、『神の戦い、人の戦い』という文章をもって答えられ、与えられたのであった。


それゆえに、

かつて、ヨシャファトとユダの民がそうしたように、

あるいはまた、その他にも、古今東西、人種国籍、有名無名、老若男女を問わず、まことにまことに満天の星のごとき真の兄弟たち、同胞たち、先祖たちが、

わたしたちの神イエス・キリストと父なる神に向かって歌をうたい、その聖なる輝きをたたえる者たちとして、戦いの先陣を切って、進み出ていったように、

この私もまた彼らに倣って、声の限り、力の限り、命の限りを尽くして、喜びと賛美の歌を歌いながら、明日の朝まだき、攻め下っていこう。

ただひたぶるに、

我が人生におけるエリコの町へ、テコアの荒野へ、ローマの法廷へ、ゴルゴタの丘の上へ、

それがどこであったとしても、わたしの神イエス・キリストの行くところであれば、私は付いていく。

私はたとえ恐れても、けっして恐れない。

恐れない、おののかない、おじけづくこともない。

私はわたしの神を信じている。わたしの神イエス・キリストと父なる神が言ったことは、すべてその通りになる。

だから、私は恐れない、おののかない、おじけづかない。

荒野から山を越え、太陽が昇り、太陽の沈む大海までが、私の「領土」となる。

私がただ強く、雄々しくあり続けることによって、ただ強く、雄々しくあり続けることによって、一生の間、私の行く手に立ちはだかる者はない。

私の内から、わたしの神イエス・キリストの霊と、キリストを死者の中から復活させた父なる神の霊が取り去られることは、けっしてない――私が、イエス・キリストの名によって与えられた霊を拒まない限りは。

私は、イエス・キリストの声に忠実に聞き従い、右にも左にもそれることがない――だから私は、行く先々で栄え、成功する。

私には託宣がある、祈りの回答がある、勝利の福音がある――そのような神の言葉が、この私には与えられたのである。

どうして恐れることがあろう、どうしておののくことがあろう。

どこへ行っても、私は恐れない。

わたしの神イエス・キリストと父なる神は、いつもいつでも、この世の終わりまで、私と共にいるのだから。


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